10
無心でマカロンを堪能していた羊花は、最後の一個を食べ終えて我に返った。遅い、遅すぎる。
溜まり場に強制招集されている現状を嘆いていたはずなのに、何故、のんびりお菓子とお茶を味わっているのか。すっかり馴染んでいるじゃないかと言われても、反論できない。
(お菓子が美味しすぎるのが悪い。特にピスタチオが絶品でした……!)
ご馳走様でしたと手を合わせながら、羊花は心の中で叫んだ。なお、反省はしていない模様。
「そういや、総長。浅黄は?」
「見回りだ」
「見回りぃ?」
黒崎の端的な答えに、茶臼山は片眉を跳ね上げた。
「縄張りなんて、あってないようなもんだっただろ? 今更見回りとか、何の冗談だっつーの」
茶臼山の言う通り、『Zoo』のメンバーは縄張りにさほど興味がない。元より彼らは、不良の頂点に成り上がりたいなどの目標を持っていなかった。
縄張りについても、売られた喧嘩を買っているうちにどんどん広がっていただけに過ぎない。
くれるというものは貰っておくが、意気込んで主張する気もなく。一帯の不良を傘下にして統治するのも御免だった。
降りかかる火の粉は払っても、それ以外の面倒ごとには首を突っ込まないというのが彼らの不文律だったはず。
それが、最もやる気に欠けていそうな浅黄が率先して見回りとは。質の悪い冗談だという茶臼山の主張も無理からぬ話だ。
「近所が平和なのは良い事だろ」
「正気か」
なに善人みてぇな事を、と茶臼山は鳥肌が立った腕を擦る。
しかし黒崎は、茶臼山の失礼な言葉には反応しなかった。マカロンの余韻に浸りながらお茶を飲み、ほんわかと花を飛ばしている羊花を見ている。
そして、そんな黒崎と羊花を眺めていた灰賀も、何かに気付いたようにポンと手を打つ。
「うん。平和が一番」
「だろ」
「揃って脳みそ腐ったか?」
茶臼山は信じられないと言いたげな目を、黒崎と灰賀に向けた。
灰賀は「考えてみて」と前置きをした後、神妙な顔で口を開く。
「オレ達はどこでも生きていけるけど、そうじゃない子もいるでしょ?」
「あ?」
「コタは面倒臭がりだけど、クミチョーの世話はするじゃない。大切なクミチョーを、その辺のドブ川で泳がせるなんて事、絶対にしないよね」
『クミチョー』とは茶臼山が飼っているカメの名前だ。
縁日の屋台でゲットして以降、茶臼山家のリビングにある水槽の中で、すくすくと成長している。成長しすぎて、そろそろ庭に池でも作るかと相談されるレベルで大きくなっている。
「当たり前だ!」
憤慨する茶臼山は、クミチョーをとても可愛がっている。
自分の世話も儘ならない男が小まめに水を替え、天気の良い日は日光浴をさせ、甲羅も洗ったりするのだから愛情は本物だ。
しかしクミチョーが何なのか知らない羊花は、密かに混乱していた。
大切な組長……がドブ川で泳ぐ……? と虚空を見つめながら独り言を呟く。
「クミチョーはちょっと水が濁っただけでも、調子が悪くなるっつーのに。臭くて汚くて、その上何がいるか分かんねぇドブ川とか言語道断だ」
「水が濁ると具合が悪くなる組長……?」
「ひつじ、チーズ食うか?」
混乱している羊花の前に、黒崎はキューブ状のチーズを置く。
意味を理解する事を諦め、羊花はチーズに手を伸ばした。確実に肥育されている。
「それと同じ。可愛い子が歩いていて、変なのに傷付けられたら嫌でしょう? だから一帯を綺麗に掃除したいよねって、そんな話。……ですよね、総長?」
カラフルなキューブ状のチーズを積み上げていた手を止め、黒崎は灰賀の方を向く。
「そうだ。ただでさえ、最近は騒がしくなってきたからな」
「それは総長と浅黄が、ひぃを……って、あー……」
茶臼山は途中まで出かかった言葉を呑み込み、代わりに気の抜けた声を出す。腑に落ちたと言いたげな顔で、がしがしと頭を掻いた。
子ネズミのように四角いチーズを食べている羊花を盗み見て、溜息を吐く。
「確かに。こんなん危なっかしくて、歩かせらんねぇな」
ぼそりと呟いた茶臼山の言葉に、羊花は首を傾げた。
若い女性に圧倒的な人気を誇りながらも、特定の彼女を作らない黒崎と浅黄の傍に、女子がいれば当然目立つ。
羊花が黒崎達に絡まれるようになって、まださほど時間は経っていないが、それでも既に噂にはなっていた。
今はまだ、マイナーな都市伝説のような扱いで済んでいる。けれど時間を重ね、何度も目撃されるようになれば、羊花の正体を暴こうとする奴が出てくるだろう。
『Zoo』のメンバーが好戦的でないと知っている人間なら尚更。女一人の為に動きはしないだろうと高を括り、羊花を追いかけ回すかもしれない。
そうなってからでは、遅い。
「一回、徹底的に潰しておきたい」
黒崎の低い声と共に辺りの温度も下がった気がして、羊花は身震いした。
唐突に殺気を帯びた空気を察知し、辺りを窺うが、羊花以外の誰も慌ててはいなかった。茶臼山はともかく、温厚な灰賀までもが、黒崎と同じような顔をしている。鋭い目付きは、真正面から向けられたら気絶しそうな怖さがあった。
「具体的に、どこを?」
「どこでもいい」
茶臼山の問いに、黒崎は淡々と返す。
どこでもいい、イコール、ただの見せしめである事を茶臼山と灰賀は即座に理解した。その上で了承を示す為に頷く。
ただ一人、羊花だけがついていけていない。
固い声も冷えた眼差しも、さっきまでチーズを積み上げていた男とは別人のようだ。
「……っつっても、何もしてねぇ奴に手を出すのは禁止だ」
「動くの待ちって事か。面倒臭ぇ」
「余計な恨みを買うのも避けたいしねぇ」
羊花の怯えを悟ったのか、男達の声音が普段のトーンに戻る。
しかし羊花の震えは止まらなかった。
「……き、今日はもう、帰ります、ね」
羊花はリュックを掴んで席を立つ。
平静を装おうとしたものの、声は奇妙に裏返ってしまった。
「待て、ひつじ。送ってく」
「結構です! ……ま、まだ外、明るいので!」
脊髄反射で拒否してから、もごもごと言い訳を付け加える。目を逸らしているので、黒崎が困ったように眉を寄せたことにも気付かない。
「ひつじ」
宥めるような声で、黒崎は呼ぶ。
怯えて壁と箪笥の隙間に隠れてしまった猫を呼ぶような、柔らかくも弱った声だった。しかし怯えた猫……ではなく羊花は、全く絆されない。
「じゃあ、さよなら!」
手を挙げてから、そそくさと部屋を出て行く。
普段、鈍臭いくせに、こんな時だけ俊敏な動きをする羊花なのだった。
(怖かった……めちゃくちゃ、怖かった。良い人かと思ったけど、やっぱり不良なんだよね……)
冷えた眼差しを思い出し、羊花はもう一度体を大きく震わせた。
(私とは住む世界が違う)
温厚に見えても、気さくに見えても、根っこはやはり相いれないんだろう。
今は何故か羊花を気に入って構っているが、たぶんそう長くは続かない。そうなった時にすんなりと日常に戻れるよう、深入りは避けるべきだと羊花は考えている。
どっぷり浸かってからでは、抜け出せなくなる。
敵対チームや、『Zoo』のメンバーを慕う人達に絡まれても、羊花一人では自分の身すら守れないのだから。
身軽な状態のまま、どうにかさらっとフェードアウトしたい。それが羊花の理想だ。
バーの裏口から出て、細い路地を進む。
足早に大通りを目指して歩いていた羊花は、ふと差した影に立ち止まる。
フードで狭まった視界の端。具体的には足元に男物の靴が割り込んだ。
「おい、マジでいたぞ」
「羊のパーカーって噂の『Zoo』の女? やばくね?」
聞き覚えのない男の声だった。目が合わないように顔を伏せている羊花から見て、十時と十四時の方向に一人ずつ。
「え、見つかったの!?」
そう思っていたら、一人増えた。
三人の男に道を塞がれ、羊花は蒼褪める。
「ねぇ彼女。黒崎さんのオンナってマジ?」
「すっごい美少女って聞いたんだけど、顔見せて」
「え、オレはハーフの美女って聞いたけど」
わいわいと好き勝手な事を言っているが、一つも当たっていない。羊花が必死に首を横に振るけれど、男達は引き下がる様子もなかった。
「え、じゃあ浅黄さんのオンナなの?」
「なんか怯えてない? かわいそー」
後退った羊花の靴底が、じゃりっと音をたてる。
このまま回れ右して逃げようかと思ったら、一人の男が羊花の腕を掴んだ。
「待てって」
羊花から見える男達の口元は、にやにやと質の悪い笑みを浮かべている。
掴んだ手の力も遠慮がまるでなく、軋むような痛みを訴えた。
(……こわいっ)
さっきまでの黒崎達も怖かった。
けれど今感じているのは別種の恐怖だった。
好奇心を満たす為だけのオモチャみたいな扱いをされ、ようやく羊花は、黒崎達がいかに自分を大事に扱ってくれていたのかが分かった。
「オレ達とも仲良くしてよ」
掴まれた手を指で撫でられ、ぞわっと肌が粟立つ。
気持ち悪くて吐き気がした。
「っや……!」
「触んな」
凄みのある声が聞こえると同時に、後ろへと引き寄せられた。
羊花の腕を掴んでいた手を、力任せに引き剥がす。
「いっ……っぐ!?」
痛みに息を詰めた男は腹を蹴られ、後ろへと吹っ飛ぶ。
仲間の男達は巻き込まれ、その場に倒れ込んだ。
「ってぇ……」
「くっそ、何だよコレ」
気絶している仲間を己の上から退かしながら、男達は自分の体を擦った。
羊花はその様子を眺めながら、茫然と立ち尽くす。ぱちぱちと瞬きを繰り返していると、そっと頬を大きな手が撫でた。体の向きを変えられ、上向かされる。濁りのない黒い瞳が、心配そうに羊花を見ていた。
「怪我はないか?」
数秒呆けていた羊花は、我に返って慌てて頷く。
「そうか」
ほっと息を吐くように笑われ、羊花は酷く落ち着かない気持ちになる。
そんな羊花を抱えたまま、黒崎は前方を睨んだ。
「ここが誰のシマで、こいつが誰なのか理解しての暴挙か」
羊花が怖いと感じたものよりも、低く冷たい声だった。
頭を胸に押し付けられている羊花からは見えないが、視線は更に冷たく鋭い。
ひっと男達は乾いた悲鳴を上げる。
逃げようと足掻いてはいるものの、どうやら腰が抜けているらしい。
無様に藻掻く姿を眺めていた黒崎は、彼等の背後に向けて「どう落とし前を付けるつもりだ」と抑揚のない声で言った。
「ごめーん。まさかこんなアホが、近場に湧いてるとは思わなかったわ」
軽い調子でそう返したのは浅黄だった。
普段通りの軽い調子だが、目には苛烈な怒りが宿っている。口角は吊り上がっているが、『笑っている』と表すには余りにも歪だ。
前門の虎後門の狼。決して敵に回してはいけないチームの総長と副総長に挟まれて、男達は失神しそうな顔色で震えた。
「責任もって、オレがきっちり教育するよ」
にぃ、と笑った浅黄は男のうち一人の襟首を掴む。引き上げて強引に視線を合わせた。
「てことで、お前らのチームまで案内してね」
「す、すみませんっ! もうこんな……」
「黙れよ。怯えんだろうが」
「は、はいぃ……」
「じゃ、いくぞ。気絶している奴は、どっちか背負え」
「はい……っ」
物騒極まりない会話は、黒崎に耳を塞がれていた羊花には聞こえていない。
何が起こっているのか分からないままの羊花は、不思議そうに黒崎を見上げる。
「掃除が終わるまで待ってろ」
「……?」
浅黄と男達の会話も、黒崎の呟きも、聞こえなかったのはある意味幸せな事だろう。
彼等の黒い部分をいつか知る事になるのだとしても、取り敢えずは平和に過ごせるのだから。
問題の先送りと言われたら、その通りなのだけれど。




