31:不帰の地下窟
そのダンジョンから帰った者は誰一人としてなかった。
外から見た限り、おどろおどろしい雰囲気は漂っているものの、ありふれたダンジョンであるように思える。
出没する魔物も、ちょっと特殊な対処が必要なアンデッドが数種類いるくらいで、大した脅威ではないはずだった。
しかし、このダンジョンの制覇を宣言して乗り込んだ冒険者、パーティーのどれもが、二度と戻ってくることはないのだった。
いたずらにその噂が広まれば、犠牲者がさらに増えかねない。そう危惧したギルドは布告を出し、正式にこのダンジョンを調査するパーティーを募集し始めた。
――破格の報酬をもってして!
「これが不帰の地下窟とか言われてるやつか?」
おれは目の前の穴ぐらを観察した。こんなの、大陸じゅうに百いくつはありそうだった。実際におれたちが潜ったことのあるダンジョンにも、これと似たようなものはいくつかあった。
「逃げ帰った者の話からすると、どうやら最深部に何かがあるようじゃ」
セザメが言った。
「まあ、その生還者たちも、随分と混乱しているようで、さっぱり容量を得ない証言しかとれなかったそうじゃがの」
「未知のものに挑むのだ。油断は禁物だぞ」
ロイヒが言った。
「もちろん。こんな暗くて狭いところに永住するのはゴメンだからな」
おれは言った。
「不帰だかなんだか知らないが、そのちんけな称号を、おれたちで形無しにしてやろうぜ!」
ダンジョンに入ってしばらく経ったが、今のところ、特に変わったことはなかった。二、三の魔物に襲われたが、あっさりと撃退することができた。
他のダンジョンでもよく見かける死霊やアンデッドで、異質な能力を持っているということもなかった。
おれたちは問題なく浅層を進み、下へ下へと降っていった。
……松明で壁を照らすと、かすれた壁画が顕になった。しかしもちろんかすれているので、何が書いてあるのかはさっぱりわからない。
「こういう思わせぶりなものも、あちこちのダンジョンで見られるものだ」
ロイヒが言った。
「まあ……そうだろうな」
おれはうなずいた。
入り組んだ通路や、瓦礫の山を越えていくと、奥から人の声がした。
「……ルァアァァァァァァァァァ」
「だいぶ盛り上がってるようだな」
おれは言った。
「おれたちも混ぜてもらうか」
「……はしゃいで出すような声ではないと思うぞ」
ロイヒが言った。
暗がりの奥から、かたびらに全身を固めた戦士が現れた。さっきの叫び声の主らしかった。白目を剥いて、口からはよだれを垂らしている。明らかに正気を失っていた。
わけのわからないことを口走ると、戦士はおれたちに襲いかかった。
「一応、生きているみたいだから、死なせちゃ後味が悪い」
おれは攻撃を躱しながら言った。
セザメが激しくちらつく光球をいきなり指先に生じさせ、戦士にまともに浴びせかけた。たちまち彼は意識を失い、その場に伸びてしまった。
「おい、ラサニ、起きろ! お主まで気絶してどうするんじゃ!」
セザメは昏倒したおれを叩き起こした。
この戦士と同じような冒険者が、そこからは続々と現れた。皆一様に正気を失っており、ためらわずに武器を向けた。
「このダンジョンに挑んだ者の成れの果てか?」
戦いながらロイヒが言った。
「最深部には冒険者を狂気に走らせるような何かがあるのか?」
白目を剥いた冒険者たちは不気味で、おれはこれから向かう最深部に何が待ち受けているのか、不安になった。ダンジョンの一番奥に何があるか、今まではワクワクしたものだったのに。そうでないのは、これが初めてだった。
なるべくならこのまま最深部にたどり着かないでほしかったが、まあそういうわけにも行かず、気がつくと、もう下りるべき階段も、通り抜けるべき通路も、おれたちの前方にはなかった。
ここが最深部だった。
そこには何か祭壇めいたものが鎮座しており、その真ん中には古びた壺が置いてあった。
おれたちは顔を見合わせた。
「……開ける?」
おれが言うと、二人は首をぶんぶん振った。
「その必要はない」
どこからか声がした。いや、声の出どころは――壺の中だった。
あっさりと蓋は内側から開けられた。もくもくと黒い煙が立ち昇り、やがてひとつの形を成した。それは六本の角を持つ、細い目の悪魔だった。硫黄の匂いが鼻をついた。
おれたちはしばらく睨み合った。
「……ほう、効かないか」
悪魔がやがて言った。
「な、何の話だ?」
おれが訊くと、
「ここに来るまでに、発狂したやつらの襲撃を受けたはずだ。あいつらは我の波動に耐えられなかったのだよ。だからああなった。しかし、貴様らは違うようだ」
悪魔はロイヒに目をやった。
「貴様はその鎧のせいだな? ずいぶんと長く生きたが、こんなにバカみたいに分厚い鎧を本気で着ている奴は初めて見たぞ……」
「ば、バカとはなんだ!」
ロイヒはそう言って怒った。鎧をけなされたときては、悪魔にも物怖じしないのが彼女らしかった。
悪魔は次にセザメを見た。
「……ははあ、貴様、少女のナリをしているが、本当は違うのだな? さてはエルフだろう。我はエルフが嫌いだ。あの種族ときたら頭でっかちで、悪魔の誘惑にもさっぱり動揺しないんだからなあ……」
最後に悪魔はおれのほうを向いた。
「貴様の頭は空っぽだ。だから我の波動も無効化されたのだ。そもそもかく乱するような精神が、貴様には備わっていない。馬の耳に念仏というやつだ」
「どういう意味だよ!」
「こうなると、少々面倒だ。面倒だが、やる」
悪魔がそう言い終えたとたん、おれたちは見えない手で握り込まれたかのように、三人まとめて部屋の中央に押し付けられた。
体を押さえている力は正体不明で、恐ろしいほど強く、知っている限りの対抗策を試みても抜け出せなかった。それはロイヒとセザメも同じらしかった。
「本当に面倒だが、波動が効かないのだからしかたない」
悪魔は勝手にそうつぶやいている。
「直接食うしかない。面倒くさい。実体化は疲れるんだがな」
「じゃあやめたらどうだ!」
おれはそう叫んだ。
「馬鹿を言うな空っぽ。面倒だからといって貴様は飯を食うのをやめるのか。眠るのをやめるのか。やめないだろう。我もやめない」
煙めいていた悪魔の体は、だんだんとその色を濃くし、手で触れそうなほど実体を帯びてきた。それにつれて、辺りに立ち込めている邪気は一層強くなり、おれは気分が悪くなるのを感じた。
どうやらこのままでは本当に食われてしまうようだった。
「オイオイオイオイオイ。おれ宿屋の自分の部屋の机にやべえもんが散乱してるんだよ。あれ見られたら死んでも死ねねえよ。誰かあれを燃やしてくれ」
「おい、ロイヒ。お主の鎧のゴツゴツが背中に当たって痛いぞ。何とかしろ」
「お前ら自分たちがどういう状況なのかわかっているのか!」
ロイヒが怒鳴った。
「わかってるから絶望してるんだろうが! おれのあれやこれやが白日のもとに晒されるんだぞ!? こんな残酷なことが現代で許されていいのでしょうか?」
「そっちじゃなくてこの今の状況のことだ! このままじゃ食われて死ぬぞ!」
「わたしの背中もこのままでは死ぬぞ。おいロイヒ、なんだってお主の鎧はそんなにゴツゴツしておるのじゃ。ちゃんと説明してくれ」
「もう知るか、勝手に死ね!」
ロイヒはそっぽを向こうとしたが、体を押さえつけられているためそういうわけにも行かず、やむを得ず目を閉じて代用とした。
「こんなにうるさい奴らは初めてだな」
悪魔は言った。
「そうだろう。喰らっても腹の中で騒ぐぞ。諦めたらどうだ?」
聞いたことのある声が、部屋の入口から聞こえた。
「か、カルドア!?」
あの吸血鬼、カルドア・エルナーツァがそこに立っていた。彼が右手を振ると、おれたちをあれだけ強く縛り付けていた力が不意に消え、再び自由を取り戻せた。
「こんな二流悪魔に殺されてはくれるな。貴様に敗北したこの身が哀れではないか」
カルドアの手から沸々と闇がたぎり、鋭い矢となって悪魔の体を貫いた。ほぼ実体化していたその体に、矢は黒々とした穴を開けた。
「邪魔が入ったな。仕方ない。逃げる」
悪魔は不機嫌そうな声を残して、かき消すように失せた。蓋の開いた壺は、そのままにされていた。
「ど、どうしてここに?」
おれはカルドアに訊いた。
「私が眠りにつく前、人間どもをたぶらかしていた悪魔がいたことを思い出してな」
カルドアは辺りに漂う硫黄の匂いに顔をしかめて言った。
「あのような醜悪な悪魔、ひと目見れば関わりを持たないが賢明とわかるだろうに、愚かな人間にはそれがわからない。多くの人間が与えられた力に酔い、奴は差し出された代償を貪った」
おれはそんな悪魔がいた話など、聞いたこともなかった。
「かけがえのないはずのものを差し出した人間も多くいた。自分の精神や魂のみならず、将来の子孫さえをも糧として捧げた者までがいたようだ……どうせ百年も経たずに滅ぶ定命の身で、そこまでして力を欲する意味を、私は理解しかねるが」
そう言うと、カルドアはおれたちに背を向けた。
「不本意とは言え、ラサニ、貴様には命を救われたからな……借りは返したぞ」
おれたちは無事に不帰の地下窟から抜け出した。報告書をまとめ上げて提出すると、約束されていた報酬が支払われた。
……ほとんどカルドアのおかげで達成できたようなものだ。おれは釈然としないものを感じた。
それは何も、カルドアのことばかりが理由ではないような気もしていた。
<読んでも読まなくてもいい解説>
・アンデッド
死んでない死人。死人が動くときには必ず何かしらの理由があり、ひとつは邪悪な魔術、ひとつは単なる偶然、ひとつは錯覚、ひとつは手品、最後のひとつは実は生きている場合である。いずれにせよ、見るとぞっとするのにはちがいなく、早急に対処することが望ましい。教会で聖別された武器ならばたやすく討ち滅ぼせるが、最近はそこまで上質な祝福を施せる教会というのが減ってきており、アンデッドへの対処がやや難しくなった感がある。素直に棍棒を持ち、頭をふっ飛ばすのがよかろう。頭をふっ飛ばされてなお動けるほど、気骨のある生物はこの世にないのだ。




