天使の居る街
花邑百合子という少女は四方八方どこから見ても清廉潔白、純新無垢を体現した乙女である。
旧華族の血筋だという彼女の家はその街では有名で、立派な薬医門と石造りの和風塀にぐるりと囲まれた日本家屋で、使用人が出入りするような〈本当の〉資産家であった。
夏の雲のような優しく柔らかそうな肌に、鴉のように青く艷めく長い髪。成績は優秀で、スポーツも申し分なく、人望も厚いというまさに完璧に肉を付けたような彼女であったが本当の意味での友人というものを作ることだけは酷く苦手だったようだと卒業してから気が付いた。
なんせクラスメイトは彼女個人の連絡先を知らなかったのだ。遊びに誘われたりクラス会に参加したりしていたはずなのにどうしていたのだろうと今も心底疑問である。その疑問が払拭される日など来はしないのだが。
そんな完璧な彼女に告白されたのは高校三年生の三学期も終わろうというころであった。たまたま隣の席になり、挨拶くらいは交わす仲になった。積極的に話しかけてくる百合子をあしらい続けていたせいでほかの男子生徒の反感を買ったが、懇意にしても反感を買うのだからどちらでも同じことだと思っていた。
「わたし、天瀬くんが好き」
溶け落ちて、沸騰して、跡形もなく残らなさそうなそんな熱量を込めた瞳で一言彼女はそう言った。
好きだとか付き合おうだとかのC級映画の告白シーンのようなシチュエーションだった。黒の詰襟。紺のセーラー服。締め切ってもなお冷える図書室。放課後。どこか遠く聞こえる運動部の喧騒さえ、まるで背景音楽の様相である。
彼女は部活動はしていなかった。いつもホームルームが終われば少しだけクラスメイトの女子生徒たちと雑談をし、10分ほどすると教室を出ていっていた。迎えの車で登下校をしていたから彼女と学外で歩くことなど有り得なかった。自分に限らず、この学校の誰もが学外の花邑百合子を知る機会を与えられなかった。
「俺が」
「そう、天瀬くんが」
天瀬 要は凡庸な男子生徒だった。
良くも悪くも特徴がない。一度見ただけでは覚えられない無個性であったが、更に彼は他人に対して無頓着であったためにより孤立しやすい傾向があった。
一人足りないね、といったときに咄嗟に名前が出てこないようなクラスメイトで、かといって呼ばれないことに物申すような性分でもない。気付かれなければ本当にその場から居なくなってしまうこともなくなかった。
彼の生活は花邑 百合子によってほんの僅かに歪んだ。親しくなったことで百合子の存在感に当てられてしまい他人の目につきやすくなった。だからどうということはなかったが爪の先程の不快感は持っていた。
「早く帰った方がいい、日が落ちるのも早いから」
「待って、私は天瀬くんを」
「じゃあね、花邑さん」
彼女に対して悪感情があるわけではなかったが、それ以上に彼女に対して思うところがあった。自分に話しかけるだけでも〈なにか〉が降り積もって重なっていくのに彼女はなぜそれに気が付かないのだろう。
夢見心地で熱に当てられてきっと正気を失ったのだろうと息を吐き出す。夕暮れの空に真っ白なそれがふわりと溶けて消えたのを見てそうあるべきだろうとマフラーに鼻を埋めた。
「待って!」
凛としたその声は琴の細い弦を弾いたときによく似ていた。いつもすまし顔の上品で完璧なはずの彼女は泣きそうで、慌てていて、息を切らして上履きのまま自分に追いすがり袖を掴んだ。
カタカタとふるえる彼女の指先は形の良い桜貝のようで、爪先まで美しい生き物なのだと感心すら覚えてしまう。
「お願い、待って、わたしは、わたしは天瀬くんに」
「俺に触っちゃだめだ」
「どうして。お願い天瀬くん、好きなの、好きなの、好きなの、好きなの」
「俺は君に恋をしていないんだよ」
早く離してほしかった。自分に触れないで欲しかった。そうしないと彼女の指先が、目が、耳が自分の体から、目線から、声から腐り落としていくような気さえする。
花邑 百合子が完璧では無いことを知っている。少し容姿や容量の良い、少し人より努力が出来る、どこにでもいる少女であることは誰よりも自分が知っている。
だからこそ彼女を特別扱いしなくてはいられないのだということも知っている。自分だけでなく、きっと彼女の家族も、クラスメイトも、先生たちも。周りがみんな花邑 百合子を特別だと思っている。
「お願い、私を見て。その目で私を見て、その声で私を呼んで。花壇の花になりたい。そうすれば天瀬くんは私に水をくれるでしょう。昆虫になりたい。そうすれば天瀬くんは私に触れて窓の外へ逃がしてくれるでしょう。空気になりたい。そうすれば身体中で天瀬くんの声の振動を感じることができるもの。お願い、好きなの、焦がれているの、こんなにもあなたを」
「花邑さん」
麗人は泣き喚いてもその美しさを崩さないのだと、良いものを見たという気持ちでいっぱいになる。花邑 百合子が泣き喚いて、表情を崩して、脇目もふらずに天瀬 要を好いていると身体中で叫んでいる。
その痛々しい絶叫の正体を知っている。自分が与えられてこなかったその激情を知っている。溶岩のように乱暴で海のように深く、冬の朝のように透き通った彼女の想いの名を知っている。
「花邑さんのそれは、恋とは呼ばないよ」
「じゃあ、じゃあどうしたら」
「俺は君を愛しているよ」
ぼんやりとした彼女の大きな目さえ押し流してしまいそうな程たくさんの涙が地面に落ちる。明日はここから百合の花が咲くかもしれないと本気で天瀬は思っていた。
恋などという陳腐なそれではない、もっともっとほの暗くて重たくて汚いその感情を恐らく彼女はまだ知らないのだ。泥と涙と唾と汚物をかき混ぜてぶちまけてそれでもなお高らかに善と正義を謳うそれを愛と呼ぶことをきっとまだわかっていないだけだ。
自分のそういう吐き気のするエゴイズムを彼女にぶつけるのは可哀想だと思ったし、それによって彼女が汚れることなど許せない。それは天瀬にとって世界の終わりよりも重要なことだった。
「わたしを、愛しているならどうしてわたしの手をとってくれないの」
こんなに傍にいるのに、と悲痛な面持ちで彼女はそうこぼす。
ちがうのだ。そうではない。たとえ手が触れる距離にいても、一つ同じ屋根の下に居ても、閨を共にしようともその距離はさして意味を持たない。花邑百合子が清廉潔白で完璧に見えるそれであるかぎり、天瀬要は生涯彼女に触れることはないのだ。
その愛がどういうものかを、彼女が知る日は永遠に来ない。
「花邑さんが花邑さんでなければ、俺は君に触れたと思う。触れる代わりに、君を愛さないと思う」
「どうして、愛しているから触れるんじゃないの?愛されていなければ触ってくれたの?見つめてくれたの?どうしたら、どうしたらわたしはあなたの世界に生きていられるの」
泣かせたいわけではなかったが、泣き止ませるつもりもあまりない。
この感情を愛と呼ぶし、この感情が愛なのであれば天瀬要という存在は花邑百合子にとって水と油なのだ。たとえ密接な距離感に居てもそれは隣でしかなくて交わることは絶対にない。
「君が天使だから、俺は君にさわれない」
ぷつん、と百合子の中で何かが切れる。
そうか、天使か。私は天使なのか。天瀬要にとってそれほどの意味を持っているのか。
さて、話は変わるが天瀬要は美術部である。
彼は油絵を得意としていた。模写を好むほうであったがその大半が宗教画だった。あり得ない速度で模倣されていく大量の絵画たち。展覧会で幾度となく表彰される彼のオリジナル。そのすべてに天使が居た。彼にとって天使というのは愛であり心であり柱であり呼吸であり命そのものだった。まさに〈魅せられて〉いたのだ。その不可解な羽を生やした人間のような生き物に。
彼にとってそれがどのような意味を持つのか花邑百合子は知っていた。
天瀬要の世界に棲む天使というものの役割を知っていた。なんせずっと見てきたのだ。ずっと、ずっと、違う小学校であったときから車の中から彼を見つめ、中学生になってからは欠かさず展覧会に足を運び、高校で同じクラスになるまで部活にも入らずただ毎日毎日、天瀬要を見つめていた。
その妄にも似た歪な彼女の感情が愛であることを彼もまた知るはずがない。その歪んだ感情を彼らはそろって愛と呼ぶのだ。
「俺は君を愛している、だからこれから先、君とは一生結ばれない」
卒業式まであとわずか。この小さな箱庭でぎりぎり繋がっていた関係だ。柵がなければ、距離など開くばかり。わかりきっている。そうに決まっている。それを望んでいる。たとえいつか彼女が誰かに抱かれようとも、自分の感情を吐き出すよりははるかにマシだと本気で思うのだ。
「愛してる、愛してるわ。これから先なにがあっても私はあなた以外愛さない」
「……息ができるうちに、来世の君に会いに行くよ」
好きすぎて触れない、そんな陳腐な関係ではない。
もっともっと不確かで、汚くて、歪で歪んで歪んだそれは二人の間にあって初めて意味を成すのだろう。
◇◇◇
「ねえ、聞いた?百合子さんたら気が触れてしまったそうよ」
「どうして?白河に嫁ぐって円満だったんじゃないの?」
「初夜に閨で顔をかきむしりながら叫んだそうよ。愛じゃない、とかなんとか」
「愛じゃない?あんなに大切にされているのに?」
短編何本かで紡ぐ群像劇……と言い張りたい。
この話だけよんでもぶっちゃけ意味はわからないのでシリーズ完結してから読んだほうがいいです。
(はたしていつ完結するのか?)
この作品は(予定では)中・短編10本で構成され、登場人物は主要人物だけで15人にも上ります。
語り部も時代も舞台も毎回違うのでわかりにくい箇所が多くなるかと思いますが、
設定だけはやたら作りこんだのでどこかで紹介できればいいななどと思います。