70話・絶対の自由
知里とのサシ飲みを切り上げたのは、まだ宵の口の頃だった。
「困ったときは異界風かギルドに話を通せば駆けつけるから」
「頼りにしてます、知里さん」
「知里でいいよ。んじゃ、また」
貴族街には精霊石の街灯があるにせよ、異世界の夜は物騒だ。
凄腕の冒険者で、他人の心が読める知里にとっては問題ないだろうが……。
俺は弱い。
情けない話だが、真夜中になってしまっては外を一人歩きする自信がない。
先だっての飛竜・上級魔神戦で思い知らされた。
生き残っただけでも大したものだが、自分の戦闘力が心もとないのは問題だ。
とはいえ、いきなり強くなるなんて無理だろうし……。
「……」
青白い月が浮かぶ夜道を、俺はほろ酔い気分で歩いた。
ロンレア家を追放された俺は、今日から本格的に根無し草だ。
これからどうやって生きていこう?
残金2800万ゼニルの報酬分を元手に事業を始めるのが妥当だろうか。
◇ ◆ ◇
俺は宿屋「時のしずく亭」に帰り、今朝の部屋に戻った。
一応、3泊の予定で契約してある。
ベランダの洗濯物を取り込んだり、水がめに貯めてあった水で体を洗ったりした。
そういえば、勇者自治区でお土産に買ったワインを知里に渡し損ねてしまった。
護衛の3人組の分も含めて、後で渡そう。
……。
俺はベッドに大の字になって考えた。
もう異世界生活も2カ月。
手持ち無沙汰でスマホが恋しくなることはなくなった。
アフィリエイトの成果発生数や承認成果数などを気にすることもなくなった。
テレビのニュースもいっさい見ない。
そんな生活に慣れると、意外と心地よいものだ。
この世界での懸念材料だったロンレア家の借金も返すことができた。
問題は『呪い』の解除だが……。
こればかりはエルマの帰りを待たなければ分からない。
「明日は何しようかな……?」
ふと思ったが、俺はいまとんでもなく自由なのではないか?
社会的な責任が何ひとつないのだ。
被召喚者として、この世界に呼びだされた俺には、戸籍なんてない。
だから住民税も、稼いだお金に税金がかかることもない。
国民年金も健康保険も、制度があるのか無いのか分からない。
病気になったら回復魔法の知り合い(ネンちゃん?)に頼むのだろうか。
回復魔法が果たして病気に効果があるのか分からないけれども。
大量の金貨も銀行に預けているわけではないので盗まれたらアウトだ。
しかし、それらのリスクを差し置いても、心身ともに自由を感じていた。
何のしがらみもない世界なのだ。
俺はたぶん麦酒で酔っていたから、そんな風に考えたのだろう。
いつの間にか、眠ってしまったようだ……。
◇ ◆ ◇
カーテンから差し込む朝の陽ざしで、俺は目を覚ました。
悪夢は見なかったので寝覚めも悪くない。
ひと風呂浴びに公衆浴場にでも行くか。
下町の方へ行ってみよう。
小夜子にも会って改めてお礼を言わないと。
手土産は何にしようか、なんてことを考える。
今朝はレモリーがいないので、自分で下着を洗濯する。
そういえば、こちらに来てからは全て任せきりだったな。
手洗いで洗濯するなんて、生まれて初めてだったりする。
洗濯用せっけんはないので、体を洗う石けんで代用する。
空いている桶を使って適当に洗った。
すすいだ後、タオルに包んで脱水をしたらベランダに干して完了だ。
レモリーは精霊魔法を駆使して、柔軟剤もないのに柔らかな肌触りに仕上げてくれていたな。
洗濯を済ませた俺は、いつものジャージを着こんでドアに鍵をかけるとホテルを出た。
アタッシュケースは念のためフロントに預け、現金は金貨3万ゼニルほど持った。
後は着がえと石けんを持ったら出かけよう。
◇ ◆ ◇
外へ出ると、突き抜けるような快晴だった。
聖龍さまの姿はないけれども、雲一つないエメラルドグリーンの空に吸い込まれそうだ。
俺は貴族街から下町の方へと向かう。
改築中の建物からは、魔法の火花が飛び散り、建材をくみ上げる音が騒がしく聞こえてきた。
旧王都も、新しく生まれ変わるエネルギーに満ち溢れていた。
そんな中で、果物を扱う店があったので覗いてみる。
「いらっしゃい」
「えーと、それ10個とそれ1瓶……」
小夜子へのお礼もかねて、リンゴのような果実を10個とハチミツを買った。
リンゴは1個50ゼニルだが、ハチミツは1万ゼニル。
〆て1万500ゼニルのお買い上げだ。
「え? あ、ありがとやしたー」
店主が目を丸くしていたのが印象的だった。
ちなみに高級宿屋「時のしずく亭」が1泊5000ゼニル。
勇者自治区のレイクビュースイートは特別な来賓用なので分からないけれども。
ハチミツがずいぶん高いな……。
買い物を済ませた俺は、建築ラッシュに沸く貴族街を後にする。
下町に向かうにつれて、建築や改装はなくなっていった。
建築の騒音に代わって、人々の喧騒や怒号などが聞こえてくる。
いまは午前中なのでさほどでもないが、夜ともなれば物騒な悲鳴なども交じって穏やかではない。
俺も1度だけリアカーを引いてマナポーションを売り歩いたことがあったけど、よく無事だったものだと思う。
それも今は過去の話。
もう俺はマナポーションを売り歩く必要もないのだ。
下町の雑踏を歩きながら、小夜子が炊き出しをしている公衆浴場に着いた。
「とん汁おいしいわよー! 並んでくださーい」
相変わらずビキニアーマーを着た、タヌキ顔で豊満な肉体を持つ小夜子の姿が見えた。
彼女は軒下で威勢のいい声を張り上げていた。




