698話・G剤上のエルマ
化学兵器は「貧者の核兵器」と言われている──。
俺たちが元いた世界では国際条約により使用が禁止されていた。
エルマが召喚しようとしている神経ガスが何なのか俺は知らない。
知りたいとも思わないし、化学の知識のない俺には理解の外の話だ。
ハッキリ言って、俺たちの作戦は歴史的にも取り返しのつかない悪行だろう。
しかし、だとしても『過去改変能力』を持ち、攻撃を「なかったこと」にできるネオ霍去病を倒すには、これしかないように思える。
エルマは狭い車内で指先を動かし、化学式を編み込んだ緻密な魔法陣を描き出す。
こじんまりとしているが、重層的に入り組んだ魔法陣が密室に浮かび上がった。
「ヒナさん。化学砲弾を召喚することは可能ですか?」
「……化学クラスター弾頭をイメージすればいいかしら?」
一方、ヒナは指先と足踏みでリズムを刻み、最小の動作で魔法式を構築する。
普段しているような踊りながらの詠唱とは違い、発動までに時間がかかっているようだ。
しかも召喚しようというのが、大量破壊の化学兵器の弾装だ。
彼女は唇をかみしめ、握りしめた拳が震えていた。
小夜子も厳しい表情でうつむいている。
2人の表情からは、かつてそれを「使ったことがある」事実が読み取れた。
ナパーム弾にクラスター爆弾──。
勇者トシヒコに命じられるまま、ヒナはそれらを召喚したのだと思うけれど──。
魔王領で行われた戦闘は、さぞかし凄惨なものであったのだと想像できる。
「全員ガスマスクを着用してくださいな♪ 化学砲弾が着弾後、すみやかに退避しましょう♪」
エルマは涼しげな顔でそう言った。
はじめて勇者自治区に行ったとき、ヒナに気圧されてギャン泣きした頃とは別人のように堂々としていた。
自称女帝と空威張りは相変わらずだけど、あのころよりも確かな自信を感じる。
もう、リア充だのカースト一軍などと
奴は変わったのだ。
「扱うモノがモノだから、対毒結界も張った方がいいかも。ヒナは召喚で手いっぱいだから魚さんと虎さんにサポートを頼めるかしら?」
致死性の高い毒ガスを召喚し、化学クラスター弾頭を作る。
しかも乗員過密の戦車内でそれを行うリスクはきわめて高い。
「任せろ。〝鵺〟仕込みの対毒結界。異界のキンダイヘイキをも凌いでやる!」
虎仮面は鼻息を荒くして、魚面も静かにうなずいて結界魔法の詠唱を始めた。
足の踏み場もない蒸し風呂のような車内に、対猛毒の結界が張り巡らされた。
「これを主砲で撃ち出します。非人道的だけれど、彼を止めなければ犠牲者は数千人だからやむをえません……」
自分に言い聞かせるように、ヒナは言った。
こうしてヒナとエルマの共同作業で、化学クラスター弾は完成した。
2人とも汗びっしょりだったが、それを拭うこともなく真剣な表情で悪魔の兵器の装填を終えた。
「カレム君は時間操作でフェイントをかけて、敵に着弾を予測できないようにお願い。ママは目視で成果を確認。レモリーさんは上空から風の魔法を流しつつ、ママを援護」
次いでヒナは指示を出した。
さすが勇者パーティの副官的な立場にあった人だ。
俺は通信機を使って、外にいるレモリーとミウラサキに作戦の概要を伝えた。
「はい。承知しました。風を操り、敵を駆逐しつつ小夜子さまを守ります」
「き、緊張するなあ」
レモリーとミウラサキの反応は対照的だったけれど、2人とも気がみなぎっていることが声の調子からもうかがえた。
「私もいよいよ人殺しか……。まあ、これまでも間接的には何度かやっていたかも知れないけど、直接手を下すのは、これが初めてね」
前髪にべったりついた汗をぬぐいながら、小夜子がつぶやいた。
「小夜子さんが手を汚すわけじゃない。俺も行くよ。あいつの死は『未来視』で確認しないといけない……」
砲座に座る俺は、そう言って発射ボタンに指をかけた。
燃える勇者自治区と焼け焦げたおびただしい数の人々──。
シェルターの前で土下座するジュダイン・バートと、差し出されたギッドの首──。
ネオ霍去病を撃つのに、躊躇はなかった。
「俺が引き金を引く。小夜子さんはそばにいてくれ。エルマ、ヒナちゃんさん、魚面、虎。退避をよろしく」
「OK。ママをよろしくね。直行くん」
そう言ってヒナは俺の肩に手を置き、小夜子と拳を突き合わせた後、ハッチを開けて外に出た。
サウナのような車内に、ひんやりとした風が吹き込んできた。
「カレム君。ヒナたちが空間転移で離脱したら、時間操作で敵の撹乱をよろしく」
「了解!」
ミウラサキはさわやかな声で返事をしたのが聞こえた。
魔王を倒した勇者パーティの連携があれば、バックアップは万全だろう。
「ワン、トゥ、スリー、&……」
戦車の屋根に軽やかなリズムが刻まれる。
ヒナの転移魔法により、車内の人員ごと退避。
あとは俺が霍去病を探知し、化学クラスター弾を撃ち出せばいい。
俺は『未来視』で、霍去病が姿をあらわす瞬間を探る。
過去改変のチート能力に比べて、剣の腕や魔力は超人の域ではないのが救いだ。
頭に浮かぶ、いくつもの未来。
まるで脳内は迷宮の小部屋ように、様々な可能性が浮かんでいる。
先の未来は破滅しかない──。
その手前の、キッカケとなる霍去病の一歩を探る。
彼はいま、森の中で俺たちの様子を伺っている。
何かあったら過去を変えて有利に導く戦法だ。
だからあえて俺たちは動かずに、見えない攻撃の準備をした。
「そこだ!」
「……&GO!」
俺が砲弾を撃ち出す寸前のタイミングで、ヒナが転移魔法を発動。
ぎゅうぎゅう詰めだった車内から人の姿が消え、俺と小夜子だけが残された。
そして砲弾は放たれた。
俺の手には、スイッチを押した感覚が微かに残っていた。
次いで俺は小夜子と共にハッチを出た。
双眼鏡を取り出し、砲弾が撃ち込まれた方角を探る。
「森だから見えないわ!」
「上空からもそれらしき動作はありません」
小夜子が叫び、レモリーから通信が入る。
ぶきみなほど、静かだった。
しかし俺の脳内にある『未来視』は、神経ガスに侵されて絶命していく霍去病が見えた。
過去を改変し、何度も「なかったこと」にする彼だが、俺たちの狙い通り、無色透明の神経ガスが時間操作能力によるフェイントで撃ち込まれていては、対応は難しいと思われる。
──ところが、事態は俺たちの予想を大きく超える動きを見せた。
どういう理由だか分からないが、ネオ霍去病が異形の怪物へと姿を変えたのだった。




