65話・「知らない天井」にて悪夢を見たること
俺は何者かの視線から逃れるように、高級宿屋「時のしずく亭」に入った。
高級宿屋といっても、勇者自治区のホテルに比べれば素朴でこじんまりとしたものだ。
ただ、それが今の俺にとっては逆に落ち着いた。
もっとも水道はないし、トイレも共同で汲み取り式だし、風呂もない。
飲み水を得るにもフロントに言って、水がめを借りてこないといけない。
精霊術使いのレモリーがいないので、お湯を沸かすこともできない。
1階が酒場になっていないので、食事は別のところで済ませる必要がある。
何気に不便だ。
だが夜も遅いし、安全なところで休めるだけでもありがたい。
古びてはいるが、質のいいベッドに体を預け、大の字で寝る。
今日も長い1日だった。
思い返せば、今朝は勇者自治区の高級ホテルで目覚め、現代を模したショッピングモールで買い物を楽しんだ後、街道に馬車を走らせ旧王都へ戻った。
夕闇も迫るころ、旧王都ではロンレア伯爵から追放処分を受け、荷物をまとめて屋敷を出る羽目に。
夜、一人ぼっちで街をさまよい、ここ「時のしずく亭」に落ち着いた。
この先どうなるのか、予測もできなくなってしまったけれども。
俺にかけられた『呪い』を解除するためにも、ロンレア家の借金は返済しておかなければならない。
何となく寝付けないまま、天井を見ている。
明かりもないので真っ暗だが、ぼんやりと梁のようなものが見える。
有名なアニメのセリフではないが、『知らない天井』とはよく言ったものだ。
昨日と今日で天井が3回変わった。
元のいた世界の俺の部屋、どんな天井だったっけ。
……。
真っ暗な天井を見つめていたら、俺は眠ってしまったようだ。
そして夢を見た。
闇だ。
辺り一面が、真っ黒い巨大な世界。
暗く、どこまでも深い闇に、俺は沈んでいく。
深淵という言葉が浮かんだが、心身ともに闇に捕まれて落ちていく。
どこまで落下するのか、どのくらいの速度なのか分からない。
時間の感覚もあいまいになっている。
落ちる、どこまでも暗い。
鉄のような臭いと味がする。
俺は血の海に沈んでいるのだろうか……。
そんなことを考える。
手足の感覚はない。
それどころか、体の感覚もない。
心に強烈に刻まれているのは、何かが「欲しい」という感情。
手に入れたい、自分のものにしたいという欲求。
渇望だ。
どうしても自分のモノにしなければいけない。
ふと、駅で見た傷だらけの女を思い出した。
彼女は、俺を見て笑ったのだっけ……。
いや、顔は見ていないはずだ。
砕け散るような嫌な音が聞こえて……。
「いいえ直行さま、直行さま! 大丈夫ですか?」
一転して、世界は光に満ちていた。
朝だ。
一瞬、ここがどこか忘れてしまったが、宿屋「時のしずく亭」だ。
窓からは朝の陽ざしが差し込み、やわらかな風がカーテンを揺らしていた。
目の前にいるのは、ロンレア伯の従者レモリー。
切羽詰まったような顔で俺を見ている。
「寝てたのか……俺は」
俺はゆっくりと体を起こす。
寝汗でびっしょりだ。
レモリーは安堵したように、微笑みかけた。
「はい。うなされていましたが、直行さま大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。ただ悪夢を見ていたみたいだ」
俺は目をしばたかせたり、手を握ったり開いたりしてみた。
身体に異常はなさそうだ。
だけどあの悪夢は普通ではない。
俺にかけられたという『呪い』との関連が気になるほどの、嫌な現実味があった。
「残念ながら私は夢解きなどできませんが、せめてお茶など召し上がって下さいませ」
レモリーがフロントから水がめを2つほど持ってきてくれていた。
けっこうな重さだろうに、この人のマメさには頭が下がる。
火と水の精霊術でお湯を沸かし、備え付けの水差しに茶葉を入れて蒸らす。
その間、俺は残ったお湯をもらってタオルに湿し、体をふいて着がえる。
そういえば異世界に来たばかりのころ、異性だからという理由でレモリーの前で着替えるのを躊躇していたら、叱られたことがあったな。
「従者の生業を否定しないでください」と言われて、ハッとしたものだ。
「着替えは洗濯しますので、このかごにお入れください」
お茶を入れ終わった後、レモリーは部屋の奥からかごを持ってきて、ベッドのわきに置いた。
屋敷にいた頃も、身の回りの世話はほとんどやってくれていたな。
無駄のない動きに感心するばかりだ。
「はい。マー茶でございます」
「ありがとう。じゃあさっそく、いただきます」
俺は紫色のマー茶を口に運んだ。
ハイビスカスティーのような酸味のあるエキゾチックな風味が口いっぱいに広がり、寝覚めにはちょうどいい刺激だった。
エルマはこれにハチミツをたっぷり入れていたが、俺はストレートでも十分いける。
「夕食の残り物で申し訳ありませんが、サンドイッチなどをこしらえて来ました。よろしければ召し上がって下さい」
レモリーがサイドテーブルにサンドイッチを広げた。
パンはライ麦っぽい茶色のやつで、具材はピクルスとチーズと燻製肉。
少しポソポソするけれど、香辛料とピクルスのビネガーが絶妙にマッチして悪くない。
腹ごしらえを済ませたら、外に出かける準備だ。
いよいよ借金を返す。
件の商人たちには、昨日のうちにレモリーが下話をしてくれていたらしい。
「馬車は裏につけてあります」
そういえばこの馬車も借り物だったな。
借金を返済したら、こっちも返さないと……。




