662話・虎を得る魚
地上ではジュダイン・バートが固唾を飲んで見張っていた地下牢。
檻につながれた虎の前に、思いもよらない姿で魚面があらわれた。
偶像のような魚の仮面に幾何学模様のボディスーツ。
かつて共に所属した暗殺者集団・鵺の仕事着だ。
鉄格子を挟んで対峙する虎仮面は、とっさに身構える。
「その恰好で現れるとは! 己を始末しに来たのか?」
「チガウ……」
魚面は反射的に否定したものの言葉に詰まり、長い沈黙が続いた。
鵺によるロンレア領襲撃から数か月。
その割には虎の身なりは小綺麗だった。
鉄格子に仕切られているとはいえ、ベッドにはやや清潔な寝具があつらえられている。
テーブルの上には食べかけのマンゴーと勇者自治区の印刷物。
トシヒコが書いたという、魔王討伐記も無造作に読み捨てられていた。
この状態は囚人というよりは、軟禁に近い。
世話をしていたのはレモリー。
水の精霊術で体の汚れや排泄物の浄化、水と食料の提供をも秘密裏に引き受けていた。
直行による特命だった。
できれば虎を懐柔したいという、彼の下心もあった。
そこには蛇に対する後ろめたさと、取り調べ前に猿を呪殺された後悔もあった。
この秘密は直行とエルマとレモリーだけが共有していた。
ギッドら幹部たちは虎仮面の幽閉までは承知していたが、ここまでの好待遇は知らされていなかった。
当然、魚面もはじめて目の当たりにしたことである。
とはいえ突然の空爆により、地下牢は瓦礫に埋もれかけてしまった。
「この爆撃はどこの勢力だ? 法王庁かクロノ王国か」
鵺の幹部だった〝虎〟は、筋肉の鎧に覆われた偉丈夫だが、冷静な判断力も持ち合わせていた。
幽閉された彼にとって、もっとも必要なのは情報だった。
「クロノ王国。ガルガ国王は〝蛇〟に暗殺されたが、ネオ霍去病ら〝七福人〟が政権を乗っ取っていル」
「〝蛇〟だと……?」
軟禁されていた虎にとって、この情報はとてつもなく貴重だった。
鉄格子に身を乗り出して続きを請うた。
「詳しい話が聞きたければ〝仕事〟を引き受けてもらウ」
魚面からの交換条件は、仕事すなわち暗殺稼業だ。
ロンレア領は圧倒的な戦力不足だった。
小夜子に鍛えられた自警団もいるが、超人的な強さの者はまだ出てきていない。
実質、魚面とグリフォン、オーガ四体だけでクロノ軍の地上部隊を防がなければならなかった。
決闘裁判で自身の戦術面の甘さを思い知った彼女には、きわめて難しい戦局だ。
そこで彼女は地下牢の“虎”に、敵将の暗殺を依頼するつもりだった。
虎が裏切るリスクもある中、きわめて脆弱な作戦ではあった。
それでも考え抜いた末に、決めた。
「……裏切り者に指図されるいわれはねえ」
当然のように虎は突っぱねた。
「〝闇に生きる者〟として〝仕事〟を依頼している」
魚面は身をひるがえして見せた。
鵺の一員である装束で交渉したのはそのためだった。
虎もすぐにその意図を理解した。
「〝鵺〟を雇うのに、報酬が情報だけってのは安すぎる」
「コレをやる。自由と死に場所もダ」
魚面は身につけていたネックレスを外し、虎仮面に差し出した。
暗殺者時代の報酬は組織に上納していたが、ロンレア領に移ってからはエルマの召喚術の師としての報酬が蓄えられていた。
とはいえそれも空爆のどさくさで家に置いてきてしまったから、金目のものはアクセサリーくらいしかない。
「フン。今更カネにも自由にも興味はねぇ。蛇みてえに死に場所にこだわるほど感傷的でもねぇ」
虎は差し出されたネックレスを突っぱねた。
「ならばこの命をヤロウ。凌辱サレ生きたまま体を切り刻まれても構わなイ」
しかし魚面も引き下がることはなかった。
彼女はためらうことなくボディスーツの胸元をはだけてみせた。
一瞬、虎の目線が泳いだものの、仮面の下であるため気づかれることはなかった。
「くだらねえ。恥知らずの手あかがついた、のっぺらぼうのお前を抱くなど、そんな趣味はねえ。いや……あるとするなら、猿のお頭だ」
「……猿」
虎仮面が思い出したようにつけ加えた〝猿〟という言葉に、魚面は硬直した。
鵺の頭目、猿は卓越した暗殺技術を持つ呪術師だった。
魚面にとっては親代わりであり師であり、望まない暗殺者生活を強いた男でもある。
彼女は未だに憎悪と郷愁、複雑な感情に絡めとられていた。
「恩知らずのてめえには理解できまいが、猿にはおれを貧民街から拾い上げてくれた恩義がある」
虎仮面にとっても猿は育ての親だった。
しかし魚面とは対照的に、虎にとって猿は生きる術を与えてくれた存在として強く心に刻まれている。
幼少期からずっと猿に育てられた虎と、記憶を失った転生者とはいえ13歳からの暗殺者教育では、育まれる価値観が違うのは無理のないことだった。
「猿のお頭ほどの術師を呪い殺したネオ霍去病という男、十中八九お頭とは旧知の人物だ」
「え……?」
「でなければ、お頭ほどの術師を遠隔から呪い殺せるわけがねエ」
予想外の言葉に、魚面は言葉を詰まらせた。
確かにその言葉を裏付けるようなことを、直行や知里、間者の神田治いぶき等が話していたような気がする。
「裏切り者の魚に与するのは癪だが、俺に仕事をくれるなら猿のお頭の仇を取らせてほしい」
虎は、両の拳を合わせて一礼する。
それは、仕事を請け負った〝鵺〟が行う独特のポーズでもあった。
仮面の下で魚面は安堵の微笑を浮かべた。
そして彼女は虎仮面にかけられた呪縛魔法を解呪する。
「裏切り者のお前に感謝はしねえ。だが依頼は受けた。勤めは果たす」
戒めを解かれた虎仮面は鉄格子を捻じ曲げ、自由を得た。
次回予告(池田湖訪問ミニレポート)
※本編とはまったく関係ありません。
知里「ここは鹿児島県の池田湖。九州最大の湖だね」
エルマ「小夜子さんは昭和時代に来たことがあるんでしたわね♪」
小夜子「先輩の車ですし詰め状態で15時間かけて来たことがあるわ」
エルマ「クーラーなかったんでしょう♪ 車内は蒸し風呂状態だったとか♪」
小夜子「イッシーはいなかったけど、青春だったなあ」
直行「イッシー像ならあるけどな」
知里「水槽に大鰻が展示されてたり」
直行「大鰻を祭った“パラダイス神社”なんてのもあったり」
直行「昭和のレジェンド漫画家の色紙があったり」
エルマ「ちょっと離れたところには100円入れると水を吹く竜神さまもいたり♪」
小夜子「次回の更新は8月17日を予定しているわ! お楽しみにね!」




