64話・はじめての、一人ぼっち
「馬車の返却、今日なのに」
ロンレア伯爵家を追放された俺は、従者レモリーに、目くばせと捨て台詞に見せかけたメッセージを送った。
この2か月間、ともに商売を行った仲間だ。
俺の意図、なんとか伝わってくれ。
憮然とする伯爵夫妻とは対照的に、困惑しながらも深々と俺に頭を下げる従者レモリー。
大丈夫かな……。
さて……。
応接室を出た俺は、早々に荷物をまとめることになった。
とはいえ身一つで異世界に召喚された俺に、大して持ち物なんてない。
報酬の入ったアタッシュケースがある他は、ほとんど着の身着のままだ。
借りていた礼服(実物は引き裂かれてしまったので、複製したもの)と古い下着が何着か。
これらを客間に置いて、俺は着慣れたジャージに着替えた。
それにしても、勇者自治区で現代風の下着やタオル、カミソリや歯ブラシを手に入れられたのはラッキーだった。
幸いにして、金もある。
もっとも、半分はロンレア家の借金返済に消えることになるのだが。
荷物をまとめた俺は、納屋に向かった。
馬車の中にある金貨の入ったアタッシュケースに無造作に触れる。
すると、風の精霊が緑色の光を放ち、屋敷の方まで飛び去って行った。
警報装置が作動したのだ。
「はい。レモリーです直行さま、今後いかがなさるおつもりですか?」
しばらくして、再び風の精霊がやってきて、聞き慣れた声を音声レコーダーのように再生した。
「今どこにいる? 伯爵夫妻にこの会話を聞かれてはいないな?」
風の精霊術を使った、ある種の電話である。
勇者自治区のホテルの部屋には、精霊石を使ってまるで内線のようにフロントと通話できる仕組みがあった。
それにヒントを得たレモリーが、見よう見まねで自らの精霊術を応用したのがこれだ。
「はい。私室におります。この度はとんだことになってしまって……」
「済んだことは仕方がない。それよりも、これからのことだ」
エルマがやろうとする大抵のことには甘かった伯爵夫妻だが、今回ばかりはガチギレしている。
いつまでも俺が屋敷内に留まるわけにはいかない。
俺は早口で、今後のことをレモリーに伝えた。
「レモリー。俺はしばらく宿屋『時のしずく亭』に泊まる。俺は馬車を動かせないから、明日の午前中、頃合いを見計らって宿屋にこの馬車をつけてくれ。受付には伝えておくから、会って今後のことを話し合おう。悪いけど、一緒にこの金貨も持ってきてほしい」
「はい。承知いたしました直行さま!」
エルマからの言付けはあるにせよ、そもそもマナポーションを売って得たこの金貨の持ち主は、俺ではない。
でも俺は、ロンレア家の借金を返さなければ死ぬ呪いを受けているため、勝手に返済に当たらせてもらうつもりだ。
いぶきやアイカなど勇者自治区の者が利用した『時のしずく亭』ならば、少なくとも金貨の管理に関しては安心できるはず。
まずは金貨を安全な場所に保管する。
馬車の返却はそれからだ。
それにしても『風の精霊術』を利用した電話のような機能は便利だ。
「風の精霊術を通信機代わりに使えたのは良かったよ。この精霊を連れて行ったら電話代わりにならないか」
「いいえ。残念ながら直行さまは精霊術の使い手ではないので難しいでしょう」
俺も精霊術を覚えてみるかな。
素質があればだけど。
「とにかく、今日はお疲れだった。明日に備えてゆっくり休んでくれ」
「はい。直行さまも」
「ワンオペの家事の合間に厄介ごとを頼んで悪いが、レモリーを頼りにしている」
「はい! 私も直行さまの窮地にさらにお役立ちできるよう、努めてまいります」
追放された俺は、1人きりで夜の貴族街を歩いた。
風は生ぬるく、肌にまとわりつく感じだ。
夜空には靄がかかっており、月も星の光も見えない。
周囲は静まり返っている。
昼の建築現場での喧騒など、まるでなかったかのような静けさだ。
ガス灯にも似た炎の精霊石による街灯が、街の暗闇を照らしていた。
貴族たちの屋敷の窓からは、暖炉やロウソクなどの柔らかい明かりが漏れている。
俺はアタッシュケースと着替えの入った皮袋を持って、宿屋「時のしずく亭」を目指した。
考えてみれば、この世界に来てからひとりぼっちになったのは初めてだ。
夜道の石畳に、スニーカーの靴音が控えめに響く。
「……?」
その時、不意に誰かの視線を感じた。
周囲を見回すが、誰もいない。
俺の気のせいかもしれないけれど、誰かに見られている感じがした。
気味が悪いので走り出す。
坂道を上ったところにある洋館が高級宿屋「時のしずく亭」だ。
俺は駆けこむように扉を開けると、急いでチェックインを済ませた。




