597話・敵、味方を欺く
意識不明の重体だったはずの勇者トシヒコが消えた。
勇者自治区のハーレムの地下にある集中治療室で治療を受けていたはずが、ベッドはもぬけの殻だった。
「トシに意識が戻ったの? 自分の意志で消えたの? それとも誰かが移動させたの?」
ヒナも小夜子もこわばった表情で、部屋中に視線を泳がせる。
アニマ王女は大きな目を見開いて、不安そうに胸に手を当てた。
「重症の勇者さまが失踪? どういうことですかァ! これはァ!」
一方、この場でもっとも取り乱したのは案内役を務めた男性で、声を荒げて二人の回復術師たちに詰め寄った。
重体であるはずの勇者トシヒコが消息不明であることは、大問題だった。
ましてやそれを報告せずに、幻影魔法にによって隠ぺいしようとしたことは責任問題どころの話ではない。
「ヒナ様に事情を説明しなさい。婚約者のアニマ王女様の御前でもあります」
案内役を務めたハーレムの高官は、鋭い口調で問い詰めた。
「言えません」
しかし、2人の回復術師たちはキッパリと告げた。
「勇者自治区の執政官といえども、お話しするわけにはいきません! 我々はトシヒコ様の直属の部下です」
「……ましてや」
2人の視線が、同時に小夜子とアニマ王女に注がれた。
「アニマ殿下にトシヒコさまの所在を伝えるわけにはまいりません。そもそも“共に戦った仲間”である小夜子さまならともかく、クロノ王国は敵国ですよ」
回復術師が言った、敵国という言葉にアニマの表情は暗くなった。
「婚姻話も政治的なものですよね。当然、ハーレムにはアニマ殿下お付きの侍女も入るのでしょう。情報は筒抜けになるじゃないですか!」
「ヒナ執政官は秘密警察を廃止する方針だそうですが、こんな有様ではわが自治区は滅びてしまいます」
彼女たちは直立不動のまま、言い切った。
どのような処分が下されてもいい、という自棄も含まれていたものの、英雄を相手に堂々とした態度を示した2人。
「……ごもっともな言い分で、返す言葉もないわね。ゴメンなさいアニマさん」
ヒナがつぶやき、申し訳なさそうにアニマ王女に頭を下げた。
「ヒナさんが謝らないでください。突然押しかけたわたくしにも責任はあります」
アニマ王女はうつむき、唇をかみしめながらも、ヒナをなだめた。
依然として勇者付きの2人は鋭い目線を王女に向けている。
ヒナはその2人に対して、静かに言った。
「……言いたくないなら言わなくてもいいわ。ただし、ふたつの質問に答えてちょうだい」
穏やかだが、有無を言わさない迫力は、彼女の政治家としての威圧感ではなく、常人を超える戦闘能力から来るものだった。
彼女は持ち前のすさまじい魔力で軽くステップを踏み、『虚偽感知』と『敵意感知』の魔法を同時に発動させた。
「『はい』か『いいえ』で答えてね」
「……はい」
トシヒコ付きの回復術師の2人に、少し緊張の色が浮かんでいた。
「ひとつめの質問です。『勇者自治区および勇者トシヒコ本人に敵意はありますか?』」
ヒナは2人を交互に見定めながら質問した。
小夜子もアニマも案内役も、不安そうに2人を見た。
「『いいえ』!」
2人は顔を見合わせることもなく、キッパリと否定する。
彼女たちも術師である以上、ヒナの『虚偽感知』『敵意感知』の魔力から逃れられないことは理解している。
虚偽感知に反応はない以上、彼女たちは嘘を言っていない。
敵意も感じられなかった。
「では次の質問。『クロノ王国と戦うことになったら、武器を取って戦いますか?』」
ヒナが静かに、見定めるように2人に問いかけた。
一瞬でその場が静まり返り、アニマは唇を噛み締めた。
「『いいえ』」
「『はい』」
2人は示し合わせようとしたものの、呼吸が合わずに別の答えを述べた。
ヒナの眉がピクリと動き、大きく息を吐いた。
虚偽感知魔法が反応し、「はい」と答えた者が「嘘」をついていることが判明した。
「ヒナ様! 申し訳ありません! でもでも、命令されればやりますよ!」
真っ青な顔で弁明する回復術師の言葉に、今度は「嘘」も「敵意」もなかった。
「OK、気にしないで。本心が知りたかったの。咎めるつもりもないし、トシのことを言う必要もない……」
ヒナたちが決めた自治区の方針を否定されたことは少しだけ不本意だったが、元よりハーレムはヒナのあずかり知らない領域であり、本心を言えば、ここには来たくなかった。
それはこの地が勇者トシヒコの欲望の住処ではなく、実質的な傷痍軍人の病棟だったとしても、居心地の悪さは変わらない。
「さて、アニマさん。ここに長居は無用ね。サンドリヨン城でディナーを用意するわ。お付きの人たちにも来てもらって、歓談しましょうか」
ヒナは少しだけ早口でそう告げると、足早にここを去ろうと踵を返した。
空気を読んだ案内人も、小夜子も、2人の回復術師を横目で見ながら部屋を出ようとした。
「いいえヒナさん」
ところが、アニマ王女は動かなかった。
「わたくしは勇者の妻です。トシヒコ様のお側にいるためにこちらへ参りました」
「でもアニマさん、トシはここにいるかどうか分からないし、仮にいたとしても意識不明の重体で……」
明らかにヒナは戸惑い、声が上ずっていた。
「承知しています。だからこそ、なのです」
アニマは毅然として言い、続けた。
「遅かれ早かれ、この地は戦場になります。わたくしがここにいることで、この場所が戦火を免れる可能性がある以上、わたくしはこの場を離れるわけにはいかないのです」
「勝手なことを言わないでください!」
2人の回復術師が反論した。
「非礼を承知で言いますけど、正直に言います。敵国の姫君の言葉など信用できません」
「2人とも止めなさい!」
ヒナの制止も聞かず、2人は強い口調で続ける。
「姫君ともなれば、お付きの人だって何人もいるでしょう。そんな人たちがハーレムに入ったら、ここの秘密だって他国に筒抜けです!」
「皆、傷を負ってるんです! トシヒコ様の行方だけじゃない。ヒナさまにだってまだまだ秘密にしてることがあるのに、他国の要人を……どうして」
興奮した1人が言葉に詰まり、むせび泣いてしまった。
もう1人が彼女の背中をさすり、その様子にヒナは困惑してしまった。
しかしアニマ王女は一歩も引かなかった。
「ならばわたくしはただ一人の人質で構いません。供の者は国へ帰します。わたくしには勇者トシヒコの妻として、命に代えても戦乱を避ける使命があるのです」
その真意が本物なのかどうかは分からない。
「虚偽感知」の魔法はあくまでも回復術師の2人にかけられたもので、アニマ王女は範囲外だった。
とはいえヒナも改めて王女に「虚偽感知」の魔法をかけるわけにもいかない。
勇者自治区の実質上のトップであるヒナは、単身乗り込んできた一国の王女に対し、言動の真偽を魔法で確かめるといった非礼をするわけにはいかない。
「……えーと。その、アニマさん。少し冷静になりましょう。ヒナもさすがに胃が痛くなってきた」
2人の回復術師とアニマ王女という、一歩も引かない3人の諍いに、ヒナは心底困り果ててしまった。
「いいんじゃない? 人質はダメだけど、アニマちゃんにはホームステイって形でヒナちゃんの家に泊まっとけば。ハーレムにはトシちゃんが戻ったら顔を出せばいいよ。ね?」
「……!!」
そんな状況下で小夜子が何気なく言った一言で、その場は収まった。
しかし、アニマ王女が単身勇者自治区に滞在するという事実が、思わぬ形で波紋を広げてしまうことになる。
次回予告
※本編とはまったく関係ありません。
エルマ「このお話が公開されたのは10月12日♪ 豆乳の日ですわ♪」
知里「10(とお)と2(にゅう)なら10月2日でもよかったんじゃね」
エルマ「10月2日は93年から豆腐の日ですわ♪ 豆乳は08年制定ですわ♪」
知里「まぁいいけど。調整豆乳と無調整があるけど、あれは何が違うの?」
直行「調整豆乳は糖分とか塩分が入って飲みやすくなってるみたいだ。飲み比べたことないから分からないけどな」
エルマ「次回の更新は10月17日を予定していますわ♪ 『それゆけ大豆イソフラボン♪』お楽しみに♪」
直行「イソフラボン♪ って語感がいいから言ってるだけだろ……」




