30話・交渉! 6千万ゼニルの取引
翌日、俺は『時のしずく亭』を訪れた。
貴族街にあるだけあって、政府の要人や豪商の定宿といった佇まい。
落ち着いた雰囲気で、いかにもVIPご用達なので緊張する。
いぶきはいつでもいいと言ったけど、アポを取るべきだった。
つくづく、スマホのない世界はもどかしい。
この世界の宿屋は大抵一階が酒場になっていてるのだが、この店はロビーだった。
意を決してフロントに用件を伝えると、10分くらいしていぶきだけが現れた。
「直行さん、どうもです」
「突然スミマセン、いぶきさん。アポを取るべきでした?」
「いやいや全然大丈夫ですよ。ここでは何ですので、僕の部屋までどうぞ」
「お連れのアイカさんは?」
「あー、今回は僕だけでお願いします」
言われるままに二階へ上がり、いぶきの泊まる部屋まで通された。
アプリコットのような甘い香が焚いてあり、何となくメランコリックな気分にさせる。
意外というか、意識高い系とは思えないような荷物の多さに少し驚いた。
俺たちは室内の丸テーブルに差し向かいになって座り、商談を始めた。
「さて。お話の方はいかがでしょう?」
「我々としては、願ってもないお話だと全会一致でした。ぜひ取引をお願いしたい所存です」
伯爵家の名前は出さずに、何となく権威ある組織っぽい感じで言ってみたのだが、どこまで通じるか。
いぶきの表情からは、警戒心はなさそうだった。
「良かったです。直行さんと取引ができてうれしい」
「だけど、運送費含めまして単価5000ゼニルで1万2000本のお買い上げ、本当によろしいのですか?」
俺が20桁以降が欠けたそろばんをはじきながら合計金額を言おうとしたところ……。
「60,000,000ゼニルですね」
いぶきの奴、一瞬で6千万と暗算して答えやがった。
6千万といえば借金を返しても余りある大金。
気の遠くなる金額だ。
普通に考えたらこの大学生風のメガネ男に支払えるとも思えないが。
「高いでしょう? まとめ買いなので少し値引きさせていただきますけど?」
「いやいや全然大丈夫ですよ、直行さん」
そんな心配を吹き飛ばすように、テーブルの上に古風なアタッシュケースが置かれた。
いぶきが中を開けると、まばゆいばかりの黄金色が敷き詰められている。
俺は、目が点になった。
「前金で10,000,000ゼニルあります」
「一千万!」
思わず素の声が出てしまった。
「残りは商品と引き換えに勇者自治区にてお支払いいたしますが、構いませんか?」
「お、おう」
生まれて初めて見るような大量の金貨に気圧されてしまった。
気を取り直して、深呼吸。
俺も24本入りの木箱をサンプルとして持ってきたので、差し出した。
「化粧品としての検品は済ませてあります。念のため確認をお願いしたい」
いぶきは目を細めて瓶を点検している。
「直行さん、このラベルは羊皮紙ではなく……木の削りくずですか?」
「ああ、羊皮紙だとコストがかかってしまうので」
「高いですよね」
「高級感を出すために羊皮紙で作り直すこともできますが?」
「これで十分です。でも、削りくずに文字って書けませんよね。どなたかが『複写』か『複製』のスキルで写したんですか?」
スキルについて聞かれたので、一瞬驚いてしまった。
油断のならない男だな、やはりいろんなところに気づいている。
「まあ、そんなところです。こっちに来たばかりで、俺自身は全くスキルには疎いのですけどね」
「旧王都にもスキル鑑定所がありますから、気になるなら行ってみると良いですよ」
エルマは確か俺の性格スキルを『恥知らず』だと言っていたような……。
そしてレモリーは『几帳面』だった。
自分のスキルについては後で確認してみることにしよう。
あと、エルマの性格スキルも聞いてみよう。
「とりま直行さんとしては、出発はいつ頃を予定していますか?」
「馬車の手配ができ次第、勇者自治区に向かうつもりです。お急ぎとあれば、すぐにでも」
「いえいえ、僕らの用が済んでからで大丈夫ですので、一週間後あたりを目安にしていただければ助かります」
そう言っていぶきはナイトテーブルに置かれた羊皮紙を取り出し、いそいそと書き始めた。
「一応、契約書を作りますのでお互いにサインしておきましょう」
「それがいいです」
「僕の連絡先と向こうでの待ち合わせ場所は別の紙に書いておきますね」
俺たちがケチった羊皮紙を惜しげもなく使いやがって……
まあ、6千万ゼニルの取引なので当然なんだけど。
「勇者自治区での僕の連絡先は『髪結い師』の受付事務所で大丈夫です。カンタンな地図を書いておきますけど、迷ったら酒場で聞いてください」
テキパキと提案してくるいぶきは慣れたものだ。
描かれた地図を見ながら、俺は感心するばかりだ。
「旧王都から自治区へは街道が走っていますので直に行けますよ」
「分かりました」
「街道で魔物に襲われることはないと思いますが、念のため護衛を雇うことをオススメします」
「えっ、やっぱ治安が悪いんですか?」
「魔王が倒されたことで、魔物の数自体は激減しているはずです。ただ……」
いぶきはうつむいて眉をひそめた。
「冒険者の仕事が激減したことで、野盗に身をやつしたものも少なくありませんから」
「なるほど。気をつけます」
「トシヒコ様が魔王を倒したことで、世界は平和になりました。でも、それは同時に冒険者が夢を見る時代の終わりをも意味します……」
この世界に転移したばかりの俺には、関係のない話だ。
魔王討伐でも冒険者でもなく、商人として生きていく。
俺は契約書に名前を書きながら、そんなふうに思った。




