242話・再びアンナ・ハイムを説得しよう
アンナ・ハイム研究所を訪れたのは、これで3度目だった。
彼女の工房は、旧王都の外壁近くにある。
再開発に熱狂する街からは取り残されたような、雑然としたレンガ造りの建物だ。
以前来た時よりも異臭がするのは気のせいだろうか。
入り口には年季の入った鉄製の看板。
ペンキで殴り書いたような書体で『アンナ・ハイム研究所』と記されている。
が、ところどころに腐った生卵が投げつけられた形跡がある。
よく見ると外壁にも落書きがあった。
「似非錬金術師×恥知らずの異界人はこの世から出ていけ!」
「法王庁に泥を塗ったアンナ・ハイムを許さない!」
「恩知らずのアンナ。出ていけ!」
随分な書かれようだ。
〝恥知らずの異界人〟とは間違いなく俺の事だろう。
「汚らわしい!」
「出ていけ!」
「異界人くたばれ! くたばれアンナ・ハイム!」
こうした落書きを見ていると、さすがにうんざりする。
俺はノック代わりに使う鉄製のオウムのオブジェが置かれている台座に目をやった。
その場所に鉄のオウムはなかった。『ご用の方はオウムをノック!』と書かれた板も外され、地面に投げ捨てられている。
「まいったな……」
仕方なく、鉄製のドアをノックしようとすると、鍵を外す音がして向こうからドアが開いた。
「貴様かッ……。どの面下げてきやがったッ……」
いつものようにアンナは激昂している。
しかし声のトーンに元気がない。
心なしか、やつれているようにも見える。
「帰れッ……と、言いたいところだが、入れ」
周囲を伺うようにして、アンナは俺を招き入れた。
「自分が何をやったのか、分かっているのかッ?」
アンナは入念に鍵をかけると、雑然とした部屋に俺を案内した。
水槽に入ったヘビや昆虫の群れの入ったケースなども無造作に積まれているが、実はここは応接室なのだ。
例によって微かにアンモニア臭のする酸っぱい茶を出される。
俺は椅子に座る前に、改まってアンナに謝罪した。
「玄関。ひどい事になってた。俺のせいで迷惑をかけてしまったな」
「いいや。法王庁に乗り込んで決闘裁判まで手引きしたのはッ、わたしも納得済みの事だッ。気にするなッ。問題はそこじゃないんだッ……」
アンナからは意外な答えが返って来た。
「……わたしが錬金術師だという事を知る者は、限られているッ」
確かに、看板には「アンナ・ハイム研究所」と書かれているだけで、錬金術師の工房とは書かれていない。
俺たちは知里と小夜子から紹介されてここへ来たが、一般の人は単なる世捨て人の魔術師か芸術家だと思っているのかもしれない。
「アンナの存在は、知られていないのか」
「普通に考えたら、錬金術師の住まいは実験施設の整った新王都だからな。しかも奴らは高給取りだ。くそッ! 忌々しい奴らだッ! わたしの崇高な人体錬成の研究を完全否定しておいて、奴らは悠々と特権階級の利益をむさぼっているッ! なんて奴らだッ、畜生めえッ! ブゥゥゥゥ!」
「お、おう……」
最後の方は毒づいて自身が飲んだお茶を、悪役レスラーがやる毒霧のように吹き出した。
当然、俺にもかかったが、気にしないことにする。
「そもそもッ、わたしはこの街で『錬金術師』とは名乗っていないッ」
ひとしきり毒を吐いて、スッキリした顔のアンナが言った。
「わたしとお前のつながりを知って、嫌がらせをしようとしている奴らがいるッ」
「俺がロンレア家を乗っ取ったという話は、けっこう広まっているけどな」
「それも、広めている奴がいると考えた方がいいッ」
「心当たりは、あるけどな……」
真っ先に疑うべきは法王庁、および紅の姫騎士リーザ・グリシュバルトの関係者だろう。
今回の決闘裁判で、もっとも恥をかいた当事者たちだ。
「しかし妙だ。仮に噂を広め、アンナを貶めるのが神聖法王庁とリーザだとするなら、彼らの恥を市井に広めることにもなりかねない」
わざわざ自分たちの負けを宣伝して歩くようなものだろう。
アンナと俺の評判を落とすためには、自分たちの恥もさらさなくてはならない。
名誉を重んじる騎士なら、避けたいところだ。
俺だったら、事態の収束を図りたいところだが。
「おかしいだろう? わたしも、この件には裏があると見ているッ。同業者かも知れないがなッ」
その点はアンナも疑問に思っているようだ。
「証拠がないので動きようがないが、スライシャーにでも探りを入れさせるか」
「今のところは落書きや腐った生卵で済んでいるが、ここには火気厳禁の薬品も多い。火をつけられたら事だッ……」
アンナはかなり参っているようだ。
俺は、息を止めてすっぱい茶を飲み干すと、まっすぐに彼女を見た。
「アンナ。物は相談なんだが、俺たちが治めるロンレア領に研究施設を建設しないか?」
彼女は値踏みするように片方の眉を上げた。
俺はすっぱい茶で少し気持ち悪くなってしまったが、交渉開始だ。




