238話・月虹とメフィストフェレス
吹き出したエルマに気を取られて、俺は危うくボールを取り落とすところだった。
「惜しい♪」
エルマは笑い、軽やかに踊って一回転した。
俺はグラブに収まったボールを握ると、いちど真上に投げてキャッチ。
……。
そんな手遊びを繰り返して、大きく息を吸い、吐く。
「直行さん。どうしたんですの♪」
「お前が今後、何をやりたいかは分からないけど……俺は、決めた」
「何をですの?」
「お前が帰っていいよと言うまで、俺はここにいてお前を助ける」
今回の件で、帰還者リスト1位を確定させれば、すぐには帰らなくても構わないだろう。
65点の俺だって、2人のためを思うと力が湧いてくる。
世界を相手にどんなことだってできる、2人が喜ぶなら。
そんな俺に、エルマとレモリーの反応は対照的だった。
花が咲いたように笑うエルマと、愁いを帯びた表情でうつむくレモリー。
「よくぞ申しました♪ いまだ道半ばですからね。今のままでは65点どころか50点ですからね」
「お、おう?」
どんな道を思い描いているのかは知らないけど……。
「はい。承知いたしました。直行さまがいずれ私どもの元を去る時がきたとしても、いつか見た虹のように、美しい思い出として覚えておいてください」
レモリーは儚げに微笑んで、照明のひとつに精霊術で円い虹を出現させた。
月にかかる虹、いわゆる月虹のような虹の環だ。
「月虹か……」
子どもの頃にやった理科の自由研究を思い出す。
透明な四角い容器に水を入れ、角の近くをねらって懐中電灯の光を当てると、虹が現れるのだ。
角の近くがプリズムと同じ働きをするため、光が分散して虹色のスペクトルを浮かび上がらせる。
魔法の存在するこの世界でも光と物質の相互作用は変わらないのだろうか。
彼女は虹のできる仕組みを精霊を通じて理解しているのだろうか。
あるいは前世で大学生だったというエルマに教わったのか。
それとも自然崇拝のドルイドだった両親から教わっていたのか。
レモリーにとって、俺との関係を象徴する自然現象は虹なのだろう。
儚いもの、だ……。
「これから派手に金儲けをおっ始めようってときに、湿っぽい話は無しだぞ。レモリー」
「……申し訳ありません、ご主人様」
レモリーは慌てて虹を打ち消そうと手を伸ばす。
俺はその手を掴み、静かに彼女を制した。
「そのままにしておこう」
「はい……」
人工の照明にかかる正円の虹。
勇者自治区の夜に浮かび上がる、魔法の虹。
たぶん3人とも別のことを思っているのだろうけど、虹を抜けてくる夜風がとても心地いい。
「このまま時が止まってしまえば、どれほどよいでしょう」
俺に寄り添い、レモリーがそう呟いた。
エルマは虹のもとで踊っている。
「なんだか、覚えがありますわ。『ファウスト』でしたっけ♪」
「『時よ止まれ、お前は美しい』か……」
ファウストはドイツに伝わる伝説で、詩人ゲーテの戯曲や歌劇としても知られている。
あらゆる学問を究めても人生に満足できなかった老学者ファウスト博士に、悪魔メフィストフェレスが近付き、人生のあらゆる快楽や悲哀を味わわせるという契約を交わす。
悪魔は、ファウスト博士が人生に満足して「時よ止まれ、お前は美しい」と言ったら、彼の魂を奪うという一種の賭けをする。
そしてファウストは青年に若返り、魔女の祭典「ワルプルギスの夜」やギリシア神話の世界を旅していく。
「俺たちの場合、誰がファウストで、誰がメフィストフェレスなんだろうな」
この世界に召喚されて若返り、人生を楽しんでいるのは俺だから、俺にとってはエルマこそが悪魔メフィストフェレスだ。
その一方で、俺はエルマを閉じた屋敷から引っ張り出し、「広い世界」を体験させる悪魔でもある。
「どっちだって良いじゃないですか。あたくしたちは一蓮托生♪ レモリーもですわよ」
「は、はい? 私も、よろしいのでしょうか……」
「もちろんですわ♪ 直行さん、あたくしそう簡単には『帰って良い』なんて言いませんからね。どこまでやれるか、気張りましょう。これ見よがしな意識高い系の連中なぞが到達できない歴史的偉業を達成して、後世に不滅の名声を残すのです!」
……ずいぶんとデカく出たな。
「実際、ひと月で6000万、2カ月で2億以上を稼ぎ出す直行さんですから、この世界など半額セールみたいに安いものですわ♪」
「お、おう……?」
調子がいつものエルマに戻ってきた。
「はい! 私はどこまでも直行さまにお供いたします」
「あたくしにも付き合いなさいよ、レモリー」
「はい。もちろんですエルマ様」
俺たちは3人で円陣を組むように向かい合い、手を重ね合わせる。
「手に入れますわよ。望むもの総てを♪」
そんな途方もない願いを、魔法の虹のもとに誓った。




