236話・キャッチボール
「現在テニスコートを利用されているお客様はおりませんが、夜間ですので、ボールの行方にはくれぐれもお気を付けください」
俺はフロントで軟式ボールとグラブを受け取り、中庭のテニスコートへ足を運んだ。
後にはレモリーとエルマが続く。
コートの周辺は、ガス灯を思わせる明かりが照らしていた。
オレンジ色に輝いて見える趣のある照明だ。
「この灯は、何の動力源によるものだろう。精霊石か?」
「はい。それにしても、この地面も面白い色をしていますね。白い線が引いてありますが、これは何か意味のある図形なのでしょうか」
レモリーは、鮮やかなグリーンとレンガ色のコートに引かれた白いラインに目を止めた。
「これはテニスという異世界の球技をやるためのコートだ」
ちなみにコートのタイプはハードコート。
セメントやアスファルトの上に、化学樹脂がコーティングされたものだ。
テーマパークをモチーフにした景観を損ねないように、フェンスやポールなどにはポップな色遣いが選ばれ、独特なデザインとなっている。
「これからやるのは、テニスじゃないけどな」
俺はグラブをエルマに手渡した。
彼女はグラブを右手につけようとして、指を差し込もうとして苦戦した。
「あれ?」
「逆だよ。右利き用のグラブだから左手につけるんだ」
エルマは首を傾げながらも左手にグラブを差し込んだ。
「それじゃ、いってみよう。できるだけ体の近くにグラブを構えててくれ。そこを狙って投げるから」
「あたくしキャッチボールなんて、やったことありませんのに」
「だろうと思った。であれば俺を信じて、グラブを動かさないでいてくれ」
距離は大体3~4メートルほどでいいだろう。
俺は軽くステップして、試しに第1球目を投げた。
「ほ?」
乾いた音と共に、エルマのグラブにボールが収まった。
彼女自身はおっかなびっくり顔を背けてはいるが、グラブはさほど動かしていない。
俺を信じてくれたようだ。
「じゃあ俺のグラブ目がけてボールを投げてみてくれ」
「落としたら一生ここで過ごすのですわよね?」
「漢に二言はない。ただし、あさっての方向に投げるのはノーカウントな」
「分かりました♪」
エルマは嬉しそうに思い切り上体を振りかぶって、投げるフリをした。
フェイントだ。
「……くおっ!」
俺が態勢を崩しかけたところを見計らって、わざとワンバウンドになりそうな、力のない球を投げたのだ。
「……なんてな!」
エルマの策はお見通しだ。
手前に落ちそうなボールは、前方にダッシュして捕球。
俺はフェイントに引っかかったフリをして、エルマの投球の落下地点を読んでいた。
彼女の目線は投げる前、俺の足元に向いていた。
中途半端なワンバウンドが来ることは十分に予測できた。
「エルマお前、この勇者自治区で人生で初めて〝どうにもならない壁〟に直面したんだろ」
俺は言い終わり際に、エルマのグラブ目がけてボールを投げ込んだ。
「何を言ってるんですか直行さん」
俺のボールをしっかりと受けたエルマは、投げ返しながら言った。
今度はフェイントも何もない、素直な投球だった。
「自分の才能や努力では、どうすることもできない、どうにもならない状況ってことだよ」
「どうにもならない状況?」
「何もかもが定まっちまって、手も足も出しようがない状況」
「突然何を言いだすかと思えば、意味が分かりませんわ」
以降、言葉の応酬と共に、キャッチボールはリズミカルに続いた。
「勇者自治区っていうのは、エルマが7歳の時に、ヒナちゃんさんたちが魔王を倒して、たった6年でここまでの場所に造り変えた場所だ」
「それが何です?」
「もし10年早く生まれていたら、エルマは討伐軍に入っていたのか? ロンレア家に生まれちまえば無理かもしれないけど、たぶん何らかの形で、この世界の変革を担っていたのかもしれないよな?」
「……どうでしょうね」
エルマはボールを持ったまま、しばらく考えていた。
「レモリーがさ、お前のことを天才だと言っていたよ。俺もそう思う。13歳で召喚魔法はともかく、魚面やリーザ、神聖騎士団と渡り合えたのはハンパない才能だ。戦術眼でも魚面やリーザの上を行っていたし」
「お褒めの言葉は嬉しいですけど、それは2回目の人生ですからね……」
エルマはボールを投げ返す。
「確か前世は理系の大学生だとか言っていたけど、どうせ〝どうにもならない壁〟にはぶち当たらなかったんだろう?」
「つまらない交通事故で死にました、けどね」
「事故か。それは、前世の〝どうにもならない壁〟だったのかもしれないな。では今生ではどうだ?」
「……転生者を忌み嫌う、前法王に怯え暮らした日々、そしてお父様の借金と、あたくし自身の投獄には悩まされましたわ」
「結局、それらは全部〝どうにかなった〟だろ。前法王に怯え暮らした日々を変えたのは、たまたま今の法王だったけど。借金返済は俺も手伝ったが、決闘裁判を丸く収めたのは、エルマ自身の機転だった」
エルマはフェイントもワンバウンドも使うことなく、素直にボールを投げ返してきた。
「エルマお嬢さま、奇跡の快進撃じゃないか。だから、ひょっとしてエルマは〝何だかんだで、思い通りうまくいく〟と思ってしまっていたんじゃないのか?」
「……そこまでは思ってもいませんし、考えてもいませんでしたわ」
「…………」
俺たちのキャッチボールを、レモリーは何も言わずに見つめていた。
そしてエルマは、取り乱した理由を静かに語った。




