216話・ハチ公のパラドックス
ラーメン☆銀河天国物語を後にした俺とエルマは、レモリーたちと合流すべくホテルを目指した。
すでに時刻は午後4時を回っている。
商業施設を足早に抜けて、ホテルのある湖方面に歩いていく。
そこでふと、エルマが足を止めた。
「直行さん、見てください! ハチ公ですわ♪」
「お、おう……?」
湖方面に出る途中にある、小さな広場には見覚えのある銅像が立っていた。
渋谷駅のハチ公前広場にある物に、とてもよく似ているような気がする。
とはいえ俺も、細部までじっくり見たことがないので分からないが……。
台座には縦書きで「忠犬ハチ公」の名札付きだ。
「これ召喚したのかな? それとも、レプリカか?」
「実物を召喚したとすれば、元の世界で大ニュースになっているはずですし……直行さん、どうです?」
「……いや。少なくとも俺が来るときには、ハチ公像が消えたなんてニュースはなかったぞ」
「じゃあニセモノですわね♪」
俺たちはしばらく立ち止まって考えてみたが、答えなど出るはずもなかった。
そもそも本物かどうかも確かめる手段がない。
俺は何とも言えない不安な気持ちになっていた。
「なあ。たとえばエルマが『ハチ公像』を召喚しようとしたら、どうする?」
たとえば、そこにある銅像が本物だとしたら、改めて召喚した時にはどうなる?
瞬間移動するのか……?
「特定の場所にある実在の建造物を召喚するのは不可能ですわね。緯度経度や構成する物質を把握したとしても、まず無理です」
「そろばんや吹き矢はできてもか?」
「ええ。ああいうのは原材料と実体のイメージから、近いものを引っ張って来れますけど、『特定の市町村の某そろばん塾にある某氏の所有物』みたいな召喚はできません」
「そうすると、人間を召喚するのっていうのは、よっぽど特殊なんだな」
「『人間のアカシックレコード』は、かなり特異な召喚術具という事を、わかっていただけましたか」
「…………」
俺は何も答えることができなかった。
言い知れない不安はなお、増すばかりだ。
急に「いま、ここにいること」さえ怖くなってきた。
ヒナちゃんの話では、この自治区だけでも約200人の被召喚者が暮らしていることになる。
それらは召喚術具『人間のアカシックレコード』によって連れて来られたわけだ。
「…………!」
俺はハチ公像と目が合ったような気がした。
年季の入った銅像の、すり減った目の奥に、意識を持つ何者かの気配を感じる……。
俺はハチ公から目をそらすことができない。
すると、ハチ公の頭部の輪郭がぼやけてきた。
「うわああああっ!」
ぼやけた輪郭の上に、得体の知れない人間の女の幻影が浮かび上がった。
女の顔は、傷だらけだ。
いや、よく見ると、頬や額などの皮膚が、継ぎはぎだらけだということが見て取れる。
目をこすって二度見すると、元のハチ公像に戻っていた。
瞬間的に幻が見えただけだとは思うが、そのとき頭の中に、この世界に来る瞬間、駅のホームで見た女の顔が思い出され、こびりついた。
「…………」
「どうしました直行さん。ラーメンが口に合いませんでしたか? 顔色が真っ青ですよ……」
「エルマ。傷の女ヒルコについて知りたい。彼女とはそれっきりだったんだよな」
「ええ」
「遠国から来たと言っていたけれど、見当はつかないか? 衣装や肌の色から推測できないかな?」
「どうしたんですか直行さん。落ち着いて下さい。ベンチで休みましょうか」
エルマに付き添われて、俺は広場のベンチに腰を下ろした。
動悸がしていた。
深呼吸すると、いくらかは良くなってくる。
「ハチ公を見ていたら、言いようのない不安に襲われてしまった」
「……と、言いますと?」
「本来そこにあるはずのないモノが存在した」
「魔物でもいたんですか?」
「違う。いや、何でもない……。ただの、幻影か白日夢だと思う」
「幻影……ですか」
「……考えてみたら、ある意味では俺もそうなんだよな。俺はこの世界に馴染んだ気がしていたが、本来ここの住人ではないんだよな。だからなのか……」
「……あたくしを責めてらっしゃいますの? 直行さん」
エルマが珍しく、切なそうな顔で言った。
「責めてはいないよ。俺がお前の立場でも、カリスマ経営者や凄腕の営業マンとかを召喚したと思う。俺はアフィリエイターとして大した実績はなかったのに、どうにかお前の期待に応える事ができた。その事は嬉しいし、とても誇りに思っている」
「……それに関しては満点ですわ。まだ道半ばなので現時点では50点ですけど♪」
「自分でもビックリするくらい、うまく行ってる。死線も潜り抜けてきた。正直言って、どこまでやれるのか自分を試してみたいと思ってる」
「それは頼もしいですわ♪」
「しかし同時に、本来こちらの世界にいないはずの人間だと思うと、うまく行きかけている自分が幻のように感じて不安になったんだ。情けない話だ……」
口に出してみると、スッキリする事もある。
ハチ公を見てから感じていた不安は、おおよそこんなところだ。
ヒルコの幻影に関しては、言えなかったが……。
「……! エルマ?」
不意にエルマが俺を抱きしめていた。
「直行さんは幻影でも白日夢でもありませんわ。ここにいます。ここに……」
「……何だよお前らしくもない」
「あたくし、性格スキルが『鬼畜』だろうとも、性根まで腐っているわけではありませんわ」
「知ってるよ」
「直行さんをこの世界に呼んだ責任は、あたくしにあります」
「そんな事は思わなくていいよ。結構俺も楽しんでるから」
「……ですが、不安に襲われた時には言ってください」
「分かった」
「何もできませんけどねー♪」
エルマは俺を引き離し、ぎこちないステップで踊った。
周囲の人たちが興味深そうにこちらを見ていた。
彼らには俺たちが妙な親子か兄妹の観光客にでも見えたのだろうか。
「ありがとなエルマ。もう大丈夫」
俺は、踊っているエルマの頭を軽く撫でた。
「何がですの?」
「忠犬像の前で、狂犬に慰めてもらった」
「上手いこと言おうとして滑ってますわよ直行さん。あたくしたちは、道半ば。この商談を成功させて、並み居る地方領主の間から、頭ひとつ抜け出しますわよー」
俺とエルマは、決意も新たに歩き出す。
待ち合わせのホテルで、敵情視察も兼ねた夕食をとる。
正直なところ、全く腹が減っていないが、約束の時間までは後2時間ほどある。
それまでに軽く運動でもして、カロリーを消費しておかなければ。




