172話・六神通トシヒコの「天眼通」
ヒナは勇者自治区・サンドリヨン城の執務室で小夜子に宛てた手紙を書いていた。
しかしトシヒコの挙動が気になって、ペンは進まない。
過ぎたことばかり思い出して、苛立つ。
ため息をついて、アンティーク調のペンを回す。
(どうしてこうなっちゃったんだろう……)
トシヒコを横目で見ながら、ヒナは心の中でつぶやいた。
彼に対しては6年前の魔王討伐戦時代から恋心を抱いていた。
一方、トシヒコが小夜子に対して想いを寄せているのも知っていた。
小夜子の気持ちを聞いたことはなかったが、仮に両想いだったとしても、もう手遅れだ。
魔王討伐後に、彼は総勢43人ものハーレムを築いてしまったのだから……。
生真面目な小夜子が、それを受け入れることは絶対にないだろう。
一方、当の本人はタンシチューと牡蠣の焼き物を平らげてご満悦だ。
軽い千鳥足で皿を貨物用小型エレベータに戻す。
二杯目の電氣ブランをちびりと舐めると、黒ビールをチェイサー代わりに飲んでいく。
ほとんどアルコールを受け付けないヒナには、想像を絶する飲み方だった。
強い酒を和らげるために、水ではなくビールを用いるというのはあり得ないと思う。
ヒナが呆れていると、ドアに設置したインターホンが鳴った。
「お食事中失礼します! 自治区でラーメン屋を経営しているジロードと申します。勇者トシヒコ様がおられると聞き、無礼は承知でお願いに上がりました」
「誰? ヒナちゃん知ってる?」
「最近オープンしたお店の主人みたい。行政官なんかが出前取ったりしてる」
「ふうん……」
野太い男の声は、まるで武官のようだとトシヒコは思った。
ヒナはインターホン越しにラーメン屋のジロードに話しかける。
「緊急の用でないなら、トシは今帰るところだから、下で対応してくれる?」
「ラーメン屋かあ。飛び込み営業か? 面白そうだ。入って良いよ。入れ入れ」
ヒナの言葉を打ち切り、トシヒコは強引にドアを開けた。
一瞬で、ニンニクと豚骨ベースのラーメンの匂いが漂ってきた。
廊下には、アルミ製の岡持ちを持った大男が緊張した面持ちで直立している。
頭にタオルを巻いて無精ヒゲのジロードは、その場から動かず深く一礼した。
極度の緊張のためか、不自然なくらい汗びっしょりだ。
絨毯の上に、染みができるほどの勢いだった。
少しヒナが顔をしかめた。
「屋号は何てんだ?」
「はっ! 〝ラーメン☆銀河天国物語〟です」
さらにヒナの顔が曇った。
「ラーメン……銀河……天国……物語。なにひとつ関連性がない……」
それとは対照的に、トシヒコは満面の笑みだ。
「銀河! こりゃあスケールが大きくて良いや! 転生者か?」
「はっ。前世の名前が〝アマノ・ギンガ〟だったので、屋号にしました」
「良い名前だ。しかし、銀河屋。お前汗びっしょりじゃないか! ラーメンと一緒に茹でたみたいだぞ」
トシヒコの言葉に、銀河屋ことジロードは泣きそうな顔になった。
「申し訳ありません! 自分は汗っかきで、緊張すると、汗が止めどなく流れてしまう体質なのです」
「そうなの。体質なんだ。大変ね。タオル使って」
ヒナが念力で洗面台のタオルを飛ばし、銀河屋に差し出す。
しかし彼はそれを受け取らず、自身の頭に巻いたタオルで汗をぬぐった。
「ヒナ様のタオルを使うなんて畏れ多いです」
「そんな、気にしないで」
「んー。体質スキル『汗っかき』を、『水魔法得意』に変えよう。どうだ?」
「……水魔法ですか?」
トシヒコの提案は、ジロードにはよく意味が分からなかった。
勇者トシヒコは特殊スキル「六神通」のうちの一つ「天眼通」の使い手である。
この能力の基本性能は、人の見ることのできない事象を自由自在に見通すことのできる能力だ。
トシヒコの場合、その力を応用して自分や他人に眠る可能性=スキルを進化させることができた。
「料理人なら水は使うだろう。仮にお前に魔法の資質がなかったとしても『汗っかき』の体質スキル効果は打ち消されるはずだ」
「え? そんなことができるのですか?」
「ああ。チート能力って奴だ。見てろ」
トシヒコが銀河屋の額に手をかざすと、虹色の光円が現れた。
「スキル変換まで5分くらいかかる。少し大人しくしろ」
「は、はひ……」
銀河屋ジロードの声は上ずっていた。
自身に起こりつつある体質の変化に戸惑いつつも、彼は静かに経過を見守る。
時間の経過とともに、流れる汗の量が変わっていくのが実感できる。
ジロードにとって、思春期から気にしていた悩みが、いともたやすく克服された瞬間だった。
「信じられない。緊張してるのに、自分あまり汗かいてないです! うわあ凄い。なんだこれ! やべー! 体質が変わった」
ジロードは自分の肌を触って、その感触に驚いていた。
「発汗は人間にとって不可欠な機能だから、なくすことはできないけど、過剰な発汗状態は緩和された」
「は、はい!」
「ヒナからは水魔法の習得をオススメするわ。魔法は才能の世界だから、適性がなければどうしようもないけど、うまく水魔法を習得出来たら、そこそこの使い手にはなれるでしょう」
トシヒコの「天眼通」は、万能というわけではない。
変化させられるのは本人が生まれ持った性格スキルや体質スキルに限られる。
制約はあるものの、持って生まれた資質を良い方に変えることができる。
それが勇者トシヒコのスキル「天眼通」の真骨頂だった。
この能力によって、小夜子の「恥ずかしがり屋」を、鉄壁の防御障壁スキル「乙女の恥じらい」へと進化させたのだ。
知里を除いた勇者パーティの各メンバーのチート能力は、ほぼトシヒコの「天眼通」に由来する。
「あなたは……神なのですか?」
ジロードは勇者トシヒコの能力を自身で体感し、喜びと戸惑いに震えていた。
「この世界に神なんていないわ。いるのは元・王子様の法王と、空飛ぶ深海魚と、昭和生まれのハーレム男」
「ヒナちゃんは辛辣だねぇ」
トシヒコは苦笑するよりほかなかった。
ヒナの目は笑っていない。
「ありがとうございます!」
ジロードは何度も2人に礼を言って、螺旋階段を降りていった。
「あいつラーメン売り込みに来たんじゃなかったのかよ」
「岡持ち持ったまま帰っちゃった」
「〆のラーメン食い損ねたぜ。さて。俺も帰って寝るか。うちの猫ちゃんたちが寂しがるからな」
飲みかけの電氣ブランのグラスを持って、トシヒコはそそくさと退散する。
螺旋階段を降りていく音が遠ざかると、嵐が止んだような静けさが訪れた。
一人部屋に残されたヒナは、深呼吸する。
内側から鍵をかけ、粉々になった燭台を、掃除機で片付けた。
一連の動作を、踊るような軽やかさでこなすと、執務室の椅子に腰かける。
そして再び、小夜子への手紙を書き始めた。
天眼通とも読みますが、本作品ではルビは(てんげんつう)で統一します。なお、六神通の解釈は、著者独自のものでありますのでご了承ください。