170話・抱きしめて☆トゥナイト
ソファに腰かけたまま蹲ったヒナは、意識が遠ざかっていくのを感じていた。
頭の中では前世の記憶が鮮明な映像で蘇る。
「ラ~ララララ~♪ ララ~ララ♪」
ヒナの最初の記憶は、母・小夜子が歌う流行歌だった。
おんぶ紐で抱かれながら、いつも耳にしていた曲は心地よかった。
物心ついた頃には、母と一緒に歌うようになっていた。
そんなヒナを、小夜子は満面の笑みで褒めた。
「陽菜ちゃんは本当に歌が上手ね。ママは歌が好きなだけだから、すっごく羨ましいわ!」
小学生になる頃には、歌手になりたいと思うようになっていた。
中学時代に歌手を目指して芸能スクールに通い始めたいと訴えた際も、小夜子は背中を押してくれた。
「子供がお金の心配なんかしないで! 陽菜ちゃんがやりたいことを最優先してね。ただし、人様の迷惑になるようなことはダメよ」
この頃、小夜子はすでに病に冒されていたが、娘に病状は伏せていた。
ヒナは薄々と気づいてはいたものの、病が深刻なものであるとまでは思いもしなかった。
懸命にレッスンに励んだ。
そして高校時代にガールズダンスボーカルユニットの一員としてメジャーデビューが決まった。
入院中の母に報告に行くと、小夜子が病床で自分のことのように喜んで、やせ細った体で抱きしめてくれたことは、ヒナの人生でもっとも悲しく、同時に一番うれしい瞬間だった。
「さすがわたしの陽菜ちゃん! あなたと歩んだ全ての時間が、ピカピカの宝物だよ」
それから間もなくして、小夜子はこの世を去った。
ヒナは母の思いを胸に、必死でレッスンに励んだ。
父は芸能活動に反対していたが、妻への喪失感と娘の気迫に押されて応援するようになっていた。
それどころか、過剰な期待をするようになった。
デビュー以後、順調に活動の幅を広げたところで、一番人気のメンバーが不祥事を起こした。
妻子ある俳優との不倫だった。
当メンバーは即座に脱退したが、事態はこれだけでおさまらなかった。
「ゲス子に足を引っ張られた」
「あの俳優が出てる映画はもう見ない」
他メンバーの不用意な発言がSNSで炎上し、当事者たちのファン同士で論争が勃発。
エースを失ったグループの人気は急落。
これから……というところで活動に終止符が打たれた。
グループは無期限の活動休止と公式には発表されたが、事務所からは解散だと言われた。
ヒナ自身は事務所との契約は続いていたものの、イベントや営業などを細々と続けて再起を図るしかなかった。
「お前は母さんの宝物だから、ピカピカに光るはずだ。がんばれ!」
父親の期待も、この頃には重荷となり、親子関係もギクシャクし始めてしまった。
大学に進学したものの、芸能人意識が捨てきれず、周囲と合わずに孤立してしまった。
彼女たちは言う。
「がんばってね」
それは現在でも、呪いのように頭に響いている。
ヒナはずっとがんばっている。
がんばっていた。
──がんばりたかった。
ネット通販サイトで購入したロープが、ヒナの前世で最後の買い物だった。
ヒナは嘔吐した。
吐瀉物と一緒に、前世の記憶までも吐き出されたような感じがして、絨毯の上に広がった汚物をうつろな目で見ていた。
彼女は少し錯乱していた。
吐いたモノの中に、大切な思い出があるような気がして、すくい取ろうと手を伸ばす。
「ヒナちゃん! 大丈夫?」
トシヒコが駆け寄り、その行為をやめさせる。
前世の記憶に溺れていたヒナは一瞬、彼が誰だか分らなかった。
我に返ると、見覚えのある大きな手で、背中をなでられていた。
「トシ……」
それは、幾多の困難を乗り越えてきたパーティのリーダーの姿だった。
「大丈夫。ヒナ自分で回復する……」
「そうかい。じゃあオレはこっちを片付ける」
トシヒコは優しい顔をして、絨毯の汚物に手をかざす。
浄化魔法によって、ヒナが戻した胃液やら吐瀉物は真水に変わった。
「ゴメン。取り乱してしまって」
「前世の記憶のフラッシュバックか。嫌だよな」
トシヒコは大きくため息をついた。
彼の前世もまた、思い出したくない出来事にあふれている。
もっとも、ヒナとは違い、トシヒコの前世には、さほど重い事情はない。
彼の場合はただ、ほとんど一日中、部屋でゴロゴロするだけの人生だった。
「本当ゴメンね、トシ。〝扇動者〟と〝仮想敵〟のことはよく分かった。注意しようね」
回復魔法は、するまでもなかった。
明晰さを取り戻したヒナは、冷蔵庫から炭酸水を取り出すと、最初の一口で口をすすいだ。
「もう大丈夫」
ヒナは気丈に笑って見せた。
彼女の笑顔はいつも無理をしている。
母=小夜子のような底抜けの笑顔になりたいと心から思っていた。
召喚術で元気なころの小夜子を召喚したことは、ヒナにとって一世一代の賭けだった。
自分と同世代の姿には驚いたけれども、健康な状態で呼び出せたのは奇跡だと思っている。
意見が合わなくて一緒に暮らせないのは残念だけど、母が生きていてくれるだけでヒナは救われる思いだ。
「ねえトシ、ママに手紙を書くんだけど、言付けがあったら伝えておいて」
母親の話をしている時だけは、ヒナは自然な笑顔になる。