163話・虹を作る彼女
ロンレア夫人は俺の前までやってきて、一礼する。
思ってもみなかったことなので、言葉に詰まってしまった。
「……ど、どうも」
「……」
夫人も無言でうつむいている。
気まずい沈黙が流れた。
エルマもどこかよそよそしい感じで、周囲は重苦しい雰囲気に包まれている。
一体いつまで沈黙が続くのかと思ったところで、ロンレア夫人が口を開いた。
「貴方のおかげで、娘は助かりました。例の秘密も、守り通せました。主人に代わりお礼を申し上げます」
夫人は深く頭を下げた。
例の秘密とは、エルマが転生者であるということだ。
保守派の貴族で異界人を嫌悪するロンレア家にとっては、知られてはいけない事実だった。
夫人は唇をかみしめ、険しい顔で小刻みに震えていた。
異界人に頭を下げるのが嫌なのか、それとも俺にしたことを悔いているのかは分からない。
「頭をお上げください。そのようなお気遣いは無用です」
俺としては、そう言うよりほかはなかった。
「直行どのが隠れ蓑になってくだされば、エルマも生きやすいかと思います。どうか娘をよろしくお願いいたしますわね」
そう言って、夫人は馬車に戻って行った。
俺とエルマは茫然と、その後姿を見送っていた。
「お母様が、あんなことを言うとは思ってもいませんでしたわね……」
「そばに付いていてやれよ」
エルマは小さくうなずくと、母親を追って小走りに馬車へ向かった。
ちょうどその時、後ろから馬のいななきと車輪の音が聞こえてきた。
スライシャーが馬車を回してきたのだ。
俺はレモリーに分かるように大きく手を振った。
風の精霊が、彼女の声を運んでくる。
「おはようございます。直行さま。昨日はお疲れ様でした。直行さまのお申し付け通り、当面はロンレア家にお仕えいたします」
「すまない。近いうちに必ず迎えに行く。俺はスラムの公衆浴場の向かいにある元冒険者の店を拠点にしているから、いつでも尋ねてきてくれ」
俺も風の精霊に声を託して、スライシャーが回してきた馬車へと向かう。
アンナも知里も魚面も、すでに馬車に乗り込んでいる。
「大将、そんじゃあ俺たちも行きますかい?」
「おう。帰ろう、旧王都へ! 俺たちのアジトまで!」
俺が馬車に乗り込むと、スライシャーは馬に鞭をくれ、ゆっくりと馬車が動き出した。
法王庁を後にする。
雲ひとつない紺碧の空を、聖龍さまが躍るように飛翔している。
間違いなく俺にとってここでの数日が転機となるだろう。
先行するレモリーとエルマたちの馬車に続く形で、街道を走る。
俺は馬車の座席に腰を下ろして、窓から景色を眺めていた。
降り注ぐような秋の陽ざしを受けて、街道の石畳が光っている。
葡萄やオリーブ畑はどこまでも広がり、遠くの丘陵地まで続いている。
来るときのような馬車の渋滞も検問も見られない。
のどかな田園風景と、農作業をするまばらな人影に、ここで暮らす人たちの息遣いを感じる。
「直行ッ! 全部手に入れたなッ!」
「直行サン、やりましタね。ワタシも無罪ゲットで! アリガトウ」
魚面とアンナが俺に眩しい笑顔を向けた。
「何度も言うけど、みんなのおかげだよ」
「……アンタが繋いだんだよ」
俺の向かいに座り、頬杖をついて窓の外の景色を見ていた知里がつぶやいた。
「知里さんと出会わなかったら、俺は確実に死んでいたからな。感謝してるよ」
「マナポと決闘裁判の件でアンタはこの世界に名乗りを上げた。目端の利く人は、少なからずアンタに注目するんじゃないかな。敵も増えると思う」
「そん時はまた、お世話になります」
「今回は大してお役に立てなかったし。あまり、あたしをアテにしない方がいいかもね……」
知里は自嘲するような、暗い微笑を浮かべた。
「そんなことないよ。知里さんはスゴイ……」
「大将! 見てくだせえ! 虹ですぜ」
俺が言いかけたところで、御者のスライシャーが声を上げた。
街道の前方には、クッキリとした虹が現れていた。
ちょうど、俺たちが進む先にピッタリと合うように見事なアーチを描いている。
俺たちはいっせいに窓から身を乗り出して、それを見た。
「ワー、キレイ!」
「虹なんて妙だなッ? 雨も降ってないのにッ」
「精霊術じゃないかな。たぶん……」
アンナの疑問に、知里が答えた。
「エルマお嬢が『暇だから虹でも見たいですわ♪』とか、ねだったんじゃねえですかね?」
「それにしてはあの虹の発現場所、こちらからの方がよく見えるなッ。たまたまか?」
「ワタシはあの2人のコトはよく知らないカラ分からないケド、単純に出す位置を間違えたトカ?」
「……ここからだと少し遠いから、あの娘たちの心は探れないわね」
その虹の意味は、俺とレモリーだけが知っていることだ。
ロンレア伯に舌を斬られて牢に入れられた際、彼の目を誤魔化すために使った精霊術の虹。
彼女はたぶん、俺に見せるために虹を出したのだろう。
そういえば、俺が逃げ出した場所は、この辺りだったような気がする。
人によっては、嫌な記憶を思い出させる行為に受け取るかもしれないけれども。
俺は不器用なレモリーなりの、思い出を共有する演出なんだと受け止める。
「……ご馳走様」
知里が俺を見て、意味ありげな含み笑いを浮かべた。
照れくさいので、俺は視線を逸らす。
街道のわきに咲いていた紅色の花が、風に揺れているのが見えた。
夜だったので気づかなかったけれど、俺はこの辺りから這って命をつないだのだった。
こんな花々が咲いていてたとは、まるで気がつかなかった。
2台の馬車は、つかず離れず一列になって進んだ。
俺たちの視界に、ゴシック様式の正門が見える。
旧王都に、帰って来たのだ。