147話・狂犬覚醒
まさに万事休すの状態だった。
召喚士魚面が呼び出した4体の食人鬼は1体も倒せていない。
奇襲に成功した2体ほど、催涙状態にしただけだ。
残る2体は元気ハツラツ、怒号を上げて俺に迫っている。
致命的だったのは、魚面による呪縛魔法だ。
今の俺は、体中に電気が流れ続けているような感じで、まともに動けない。
エルマは、俺が投げた石が頭に当たって出来たたんこぶを涙目でさすっている。
どうして射線上にいたのか。
俺が気付くべきだったが、光学迷彩の白衣など、瞬時に見分けられない。
「ボォウ!」
「ぐっ……」
食人鬼のうち1体が、無造作に俺を担ぎ上げる。
どんなに抵抗したくても、呪縛魔法が解けない限り、なすすべもない。
殺意がないのが、せめてもの救いか……。
魔物は俺を、場外まで運んでいく。
その様子を、魚面はじっと見ていた。
俺が降伏するのを待っているようでもあった。
さすがに、もう勝ち目はない。
俺は、さすがに降参せざるを得ないと思い至った。
「分かった。もうやめにしよ……」
「何を言ってるんですか直行さん!」
俺の降伏宣言を遮り、エルマが見栄を切った。
その手に握られているのは、数本の試験管。
「まさか完成させたのか? マナポーションを」
「お楽しみはここからですわよ♪」
これ以上ないドヤ顔で、エルマは笑った。
試験管のコルクを外し、何ともいえない色の液体を飲み干した。
その瞬間、爆竹が鳴ったような炸裂音がして、エルマの髪の毛が爆発した。
「えっ……失敗?」
お笑いコントのオチのような爆発とともに、エルマの髪の毛は逆立ったまま、異様な姿になっていた。
「フゥーッ、フゥーッ!」
赤く血走った瞳は、大きく見開かれ、辺り一面を睨み倒している。
荒い息遣いは、小型だが凶暴な野獣のように荒々しい。
猫のように背中をかがめ、爪を立てて周囲を伺っている。
その姿はさながら、小型で凶暴なイタチ科のラーテルを思わせる。
〝世界一怖い物知らずの動物〟としてギネスブックに載っている奴だ。
そいつはアフリカのサバンナで、ヒトはもちろん、ライオンやスイギュウをも恐れずに攻撃する。
コブラの神経毒に対しても高い耐性を持つという驚異の小型肉食獣。
あるいは、寒冷地に住むグズリでもいい。
ああいう「小さくてヤバい生き物」のような印象を、エルマは放っている。
「シャーッ!」
「ゴッ?」
エルマは俺を担いだ食人鬼の足元に、思い切り噛みついたようだ。
足肉を引きちぎり、マズそうに吐き出す。
突然のことに驚いた魔物は、俺を投げ出して反撃しようとする。
「ぐっ! 痛って!」
闘技場内に投げつけられた俺は、肩を打ってしまった。
だが、幸いにも場内だったので、失格ではない。
「キシャー!」
俺は目でエルマを追うと、彼女は先を走っていた。
食人鬼などには目もくれず、魚面の方へ走っていく。
速い、なんてものじゃない。
3倍速で見るような動きで魚面に飛びかかる。
魚面も抵抗しようとするのだが、速度が合わない。
「キィーッ! キィーッ!」
猿のような奇声を上げるエルマ。
肩車に乗るような恰好で、魚の仮面を何度も殴りつけていた。
俺は茫然と、その様子を見つめていた。
魚面の精神力が切れたのか、呪縛魔法が解けたようだ。
少し痺れはあるが、体が動くようになっている。
「エルマのあれは何だよ?」
「狂戦士状態だなッ」
「はい?」
「媚薬と睡眠剤と催涙剤と反作用の触媒だろ? どう調合したってまあ狂戦士薬になるよなッ」
「なるのかよ」
エルマが調合したのは狂戦士薬というものらしい。
俺は、食人鬼の攻撃を回避しながら、風の精霊が運ぶアンナの声に耳を傾ける。
「それって具体的にどういう状態?」
「筋力と敏捷性が上がり、敵味方の区別なく攻撃する場合もあるッ」
「区別なく……」
「媚薬の反作用で破壊衝動、睡眠の反作用で覚醒効果、催涙の反作用でステータスアップだッ」
マナポーションを作るんじゃなかったのかよ……。
もっとも、エルマのMPが回復したところで、あの局面は打開できなかっただろう。
結果オーライだ。
問題は、二つ名の通り「小さな狂犬」あるいは「世界一怖い物知らずの動物=ラーテル」と化したエルマだが、元々は物理攻撃系のスキルを持っていない少女だということだ。
物理戦闘能力の低い魚面ならともかく、食人鬼4体にまでは手が回らない。
食人鬼4体は、俺が引き受けるしかない。
ホルスターに残った矢の残数を数えながら、俺は決闘裁判が大詰めを迎えたことを肌で感じている。