137話・失・楽・園!
俺は肩に刺さったピンク色の矢を引き抜いた。
傷は浅く、大した痛みがあるわけでもない。
引き抜いた矢から、南国めいた香水のような匂いが漂う。
確か、これはイランイランの香りだ。
催淫効果があるという。
「何てことしてくれんだよ、エルマ」
「頑なに心を閉ざし、思考を放棄したレモリーを解放するには、燃え盛るような情欲と、愛でしょう♪」
生意気な笑みを浮かべて吹き矢を持つエルマは、俺とレモリーを交互に眺めている。
「だからって俺にまで使うことは……くっ」
「男性ホルモンのテストステロンも配合したので、殿方にも効き目がありますのよ」
体が熱い。
頭が回らなくなり、動悸がする。
これが、秘薬の効果なのか。
「どうやら効いてきましたわね♪ さすが即効性ですわ♪」
エルマは邪悪な顔で俺たちを観察していた。
全身から変な汗が噴き出している。
倦怠感と共に、体中が異様に熱を帯びている。
意識が朦朧とする中で、怪我をした足の部分から痛みは消えていた。
「うっ…はあん」
レモリーの艶めいた溜息に、俺は生唾を飲み込んだ。
彼女は緩慢に体を動かしながら、トロンとした目で、あらぬ方向を見ていた。
細く白い首筋に汗の雫が伝わっている。
俺は、磁石に吸い寄せられるようにレモリーの元へ歩み寄った。
「直行さま?」
「俺を殺すと言ったな、レモリー」
そんなことを言いながら、俺はレモリーを抱きしめていた。
柔らかい感触と、やさしい髪の匂いに頭がクラクラする。
彼女の全てが、愛おしい気持ちだ。
だが今は戦闘中──。
「答えろよ。レモリーは今どう思ってる?」
「直行さま。やめてください。後生ですので、務めを果たさせてください」
「務めってのは、俺を殺すことだろう。お前の気持ちを聞きたい。納得してるのか?」
「いいえ。分かりません。命令を遂行するだけです」
俺たちは何を話しているのか、頭が回らない。
薬のせいか分からないけれど、彼女の一挙手一投足が心地の良い夢のように感じる。
本能に身をゆだねたくなる。
飛びそうな理性を、必死でつなぎとめる。
まるで凧あげをしているような感覚だ。
糸が切れたらどうにかなってしまいそうだ。
「俺は死にたくないし、お前だって俺を殺すのは嫌だろう。だったら命令になんか従うな。ロンレア伯は、もう退場している」
「いいえ……はい。生まれてから今日まで、そういう生き方しかできなかった愚かな女です」
「何だそれ、意味が分からないし、答えになってないぞ」
レモリーがトロンとした目で俺を見つめる。
いつものクール&ビューティーがウソのような甘い表情だ。
彼女もまた、悪い薬が回っているのだろう。
それは俺も同じだ。
「俺と一緒に生きよう。何もかも捨てて、俺とやり直すんだ。居場所ならつくる」
俺は、強くレモリーを抱きしめた。
「お前を離したくない」
「ああっ! 直行さま」
レモリーもまた、俺の背中に手を絡ませる。
お互いの手の平の温もりはさらに熱を帯び、俺たちの顔を上気させる。
「いいえ、できません。私は先代ロンレア伯に拾われ、今日までお仕えして参りました。身寄りのない奴隷を、生かしてくれた伯爵家を裏切るような真似はできません」
「もう充分に務めは果たしたはずだろ。後はお前の気持ちだけだ」
「……」
レモリーは頬を赤らめて、まっすぐに俺を見た。
普段とは違う、うるんだ瞳が、吸い込まれそうな青い宝石のようだ。
「直行さまのことは、お慕い申しておりました……」
「俺もレモリーが好きだ。真面目で一生懸命で……一途だから」
「んっ」
……。
気がつくと、俺たちは口づけを交わしていた。
薬の効果か、衝動的に動いてしまった。
会場からはどよめきと罵声が聞こえる。
「見ましたか知里さん! 中年の接吻ですわ♪」
「ちっ……」
「さすが大将、公衆の面前でぶちかましましたぜ。レモリー姐さんのハートもいただきですな」
「おいッ! お前ら何やってるんだッ! 魚面が苦戦しつつある! 遊んでないで助けに行けッ!」
外野からの声も、遠く聞こえた。
俺たちは2人だけの世界にいる。
「俺を殺したら、愛し合えないぞ。いいのか?」
「いいえ。私は直行さまの思い出を抱いて、尼僧にでもなります」
「出家なんかしたら、従者でいられなくなるだろ。俺を殺して従者を辞めるなら、俺と共に生きる道を選ぶんだ」
「直行さま、私を連れて行ってください」
長い口づけと抱擁。
遠ざかる観客たちの罵声。
それを煽るかのように、エルマはリズミカルに手拍子を打っている。
パチ、パチ、パチ、パチ。
エルマの手拍子は小刻みにスピードを上げていく。
彼女はリングサイドで観客を煽りながら、挑発するような動作を見せている。
「うおおおおっ!」
「茶番はやめろォ」
「いい加減にしろォ」
興奮した観客たちが、石を投げ入れだした。
俺はレモリーを庇いながら、凧型盾を置いた辺りへ向かった。
「静粛に! これは厳粛なる決闘裁判。これより物を投げ入れる行為を禁じます。繰り返します!」
進行役の騎士が大声で叫ぶ。
フラフラになりながらも、俺は凧型盾を装備する。
肩に潤んだ瞳のレモリーがしがみついている。
そこであることに気づいた。
盾の裏側に布でくるまった試験管があった。
ラベルには「解毒剤」「回復薬」と辛うじて読める乱暴な走り書きがしてある。
どさくさに紛れて、アンナが忍ばせたものをエルマが隠しておいたのだろう。
俺は混濁する意識の中で、こっそりと試験管の中身を飲み干した。
解毒剤には即効性があり、たちまちのうちに体から熱が引き、頭も冴えていく。
回復薬を飲むと、足の怪我は少しばかり和らいだ。
完全回復とまではいかないが、血が止まり、痛みも引いた。
それにしても、俺はいったい何をやっていたのか……。
ずいぶんと大胆なことをしたような気がするが……。
何となく思い出したくないような……。
「気がつきましたわね、直行さん♪」