135話・ウソだと言ってよ、レモリー
場外に落ちたロンレア伯に、伯爵夫人が駆け寄った。
俺とは目を合わせようともしないで、夫を起こそうとしている。
「外傷はないはず……ですので心配ありませんわ、お母様」
「エルマ! あなたはお父様に逆らって何をしたいの! そんな娘に育てた覚えはありませんよ!」
伯爵夫人は語気を強めた。
しかし元々存在感の薄い人なので、迫力がない。
それでもエルマは寂しそうに、その声に耳を傾けていた。
「……お父様は薬で眠っているだけので、効果が切れたら自然と起きると思います。では戦いがありますので失礼します」
「エルマ!」
事務的に告げて闘技場に戻ろうとしたエルマを、伯爵夫人が引き留めた。
「ごめんなさい。お父様が起きたら謝ります。気持ちがすれ違ってしまって、もう元の親子には戻れないかもしれませんけれど、育ててくれた御恩は忘れませんわ……これからも」
それは、いつものエルマとは思えない言葉だった。
いや、考えてみたら彼女は両親のことに関しては、一貫して真剣に向き合ってきた。
トリッキーな性格に隠されているが、エルマにとって家族は本当に大切なのだ。
この世界に俺を呼んだのも、自分たちの家を守るための行動だったのだから。
結果的に、最悪の方向にもつれてしまったが……。
「直行さん、何をボケーっと突っ立っていますの♪ レモリーを籠絡するのでしょう?」
俺に対してはいつものエルマの口調に戻って、邪悪な薄笑いもいつも通りだ。
そのレモリーは、闘技場の隅で呆然自失の状態だ。
あまりにも気の抜けた様子なので、魚面やリーザたちには腑抜けのように見えたことだろう。
エルマは堂々と従者の元へ歩み寄り、告げた。
「レモリー。ロンレア伯・ジャバウォルク卿が失格となりましたので、当主の権限はあたくしが引き継ぎます。よろしくて?」
「いいえ。私の主人はロンレア伯です」
レモリーの返事には全く感情がこもっていなかった。
ただの反応、昆虫のような印象さえある。
「だーかーらー!」
苛立ったエルマが、レモリーの腕を取ったり、髪を引っ張ったりしているが無反応だ。
どう考えても普通じゃない。
俺はリングサイドの知里の元へ走った。
「知里さん。レモリーの様子がおかしい。彼女は今、何を考えている? もしかしたら魔法で操られているとか? 呪いをかけられているとか?」
「うん。あたしも彼女のことは気になったから、魔力感知はやってみたのだけど、魔法も呪いもかかっていない」
リングサイドでは知里が腕を組んだまま、しきりに考え込んでいる。
レモリーの様子に、釈然としない様子だった。
「……彼女は自分の意志で、思考を放棄しているとしか思えない」
「エルマは『再教育』されたとか何とか言っていたけど……」
「催眠術か何かかな。どういうことをされたら、ああなるのかは分からない。たとえば洗脳とか」
「洗脳……か」
洗脳については、自己開発セミナーや情報系の商材などで読んだことがある。
・自尊心を失わせること。
・社会から孤立させること。
・依存させること。
カルト教団なんかも、基本的にはこの手の方法を使う。
ネズミ講や健康カルトなんかも、大まかにはこうした洗脳やマインドコントロールを行うことがあるらしい。
俺が元の世界でやっていたアフィリエイト界隈も、ちょっと横を見るとそういう話は多かった。
異世界の事情について詳しくは知らないが、レモリーは元奴隷という話を聞いた。
彼女は長い間、ロンレア伯爵家という狭い世界で生きてきた。
少なくとも一緒に生活した1カ月間で、彼女が友人知人や家族に会ったという話は聞いていない。
こちらの世界でも、精神に干渉して人を操るノウハウがあるのだろうか……。
「知里さん。いま、レモリーはどんなことを考えてるか教えてくれるか?」
洗脳はともかく、リアルタイムに彼女が何を思っているかは、とても重要なことだ。
「ロンレア伯の命令について、繰り返し考えている。アンタを殺すべきか否か。彼女、アンタのことが大好きなんだね。でも、命令を受けた以上は従うしかない」
「なんだ、そりゃ?」
「愛する男を殺すか否か。ありえないでしょ。そういう、極端で矛盾に満ちた葛藤? ってのは……」
少しだけ照れくさそうに、知里は早口で言った。
人間って、そんな極端な葛藤を抱えられるものなのか、俺には理解できないが。
「この色男。煮え切らない態度だけはダメだよ。アンタにしかできないこと。がんばれ直行」
知里に背中を押される形で、俺は再び闘技場へ戻った。
そんな俺を待っていたのは、レモリーの容赦ない石礫攻撃だった。




