トランク
私はカーテン越しに、朝の眩しい光を感じて目を覚ました。
自分の記念すべき27回目の誕生日の朝が、晴れているのは気分が良かった。
また、誕生日に自分の勤めているブティックが休日なのが、なおさら嬉しかった。
もう一つおまけに、今日は恋人の拓哉が誕生日を祝ってくれる。
私は、最高の気分で朝を迎え、”今日は、いいことありそう・・・”と心の中で呟いた。
私の名は”坂口美咲”仕事は京都市内のブティックに勤めている。
実家は関東地方にある政令指定都市だったが、京都の短大を卒業して、
そのまま京都で自分の好きなファッション関係に就職した。
実家の母は、帰省の度に27歳にもう少しで手が届く娘に、
結婚を急かすオウムのように、同じ言葉を繰り返していた。
4年前から交際している同い年の拓哉とのことは、
当然、母の結婚話を助長させるので内緒にしていた。
まだまだ仕事の可能性を確かめたい自分と、大好きな古都の街並みに住みたい自分が、
実家という超現実世界を回避させていた。
”唐沢拓哉は地元京都の出身で、
JR京都駅の近くにある大きなホテルに勤務していた。
友人の紹介で彼と出逢い、交際は4年の歳月を重ねていた。
彼は去年の8月に27歳になり、私は年が明けた3月の今日、27歳になった。
頼りがいがあり、大人の分別をわきまえ、時には少年のように振舞い、
それでいて関西人特有のユーモアを連発する彼が私は好きだった。
私の誕生日を祝うために有給休暇を取った拓哉が、
午後に迎えに来るので、それまでに掃除と洗濯を済ませなければと私は思った。
カーテンを開け朝の光を、窓いっぱいに部屋の中に招き入れた。
4階の窓から見下ろす北大路通の街路樹は、枝には葉がなく寒そうだが、
すぐ目の前に来ている古都の、春の気配を私は見つけていた。
私はトースターから、小麦色に焼きあがったトーストを一枚取り、
オレンジマーマレードを塗り、サラダと共にアメリカンコーヒーを啜った。
そして、10日前の友人の結婚式で貰った、引き出物の白いお洒落な皿に、
焼きたてのハムエッグを乗せた。
その白い皿を何気なく見ていると、友人の幸せそうなウエディングドレス姿を思い出した。
私はウェディングドレス姿の自分をイメージして、彼のタキシード姿を重ねた。
私の頭に描く結婚式のシーンは、満面の笑みをたたえた彼と私のスナップになっていた。
私の描く未来予想図は、27歳の誕生日を迎えた今日が、彼からのプロポーズだった。
今日の誕生日は、生涯で最高の誕生日になると、何となく心の中で確信していた。
その私の確信には、裏づけが充分にあった。
よく当たるという占いは、この時期に交際している男性と結ばれると言っていたし、
彼自身も28歳までには独身を卒業して、次のステップに進みたいと常々言っていた。
何より去年のクリスマスに彼が言った言葉が、私の頭にこびりついている。
”三月の美咲のバースデーは、サプライズが起きるかもな・・・”
という、彼の言葉だった。
私も来年の春には、彼と二人で朝食を摂ってるのかも、と思うと自然に口元が緩んだ。
あれこれと、夢膨らむ未来への思いを巡らせていた時、
ふと昨日掛かった彼の電話が、妙に元気がなかった事を思い出した。
私の頭のどこかに、ふと湧き出した不安な黒い雲は、見る見る頭全体に膨れ上がった。
私は、昨日の彼の電話の内容を何度も思い返してみた。
***
昨日の午後、私が遅い昼食休憩をとっていると、彼からの電話があった。
彼は、私用の電話を勤務先から掛けていることに気を使ってなのかボソボソと話した。
「明日の美咲の誕生日に有給取れたから、明日の午後から付き合うよ」
私は彼の気遣いが嬉しくて、声のトーンを上げた。
「うそ〜、サンキュー!さすが、誕生日に持つべきものはカレシよね」
彼は冗談ぽく笑いながら言った。
「でも美咲って、もう27歳やもんな。そろそろ考えなあかん歳かもね」
私は27歳という、私の歳にケチをつけられた気がして軽く言い返した。
「ほっといてよ。まだまだ私、ピチピチしてるから消味期限は切れてないからね」
彼は少し笑いながらも、低いトーンの声で言った。
「でも、俺も美咲も、”一区切り”せなあかん時期に来ているかもしれんしなあ・・・」
私はボソボソ話す彼に、爆笑しながら言った。
「そうよ。早めに”一区切り”してくれないと、私も三十路に突入しちゃうしね・・・」
私の言葉に彼は、数秒黙っていたが応えた。
「そうだな。明日はいい機会やし、その時に話すか・・・」
私は彼からのプロポーズをイメージして彼に言った。
「そうよね。”一区切り”は電話で言ってもらっても、困るしね・・・」
彼は、仕事が入ったことを私に告げ電話を切った。
私は記念すべき私の誕生日に、結婚の告知を彼からされるという覚悟をした。
彼となら結婚しても上手くやって行けそうだし、
仕事ぶりや言動、身のこなしや感性には、尊敬出来る頼れる男性だった。
私と彼の交際は、世間にあるような浮き足立った恋愛ではなく、
結婚という現実的な側面を見つめて、地道に育んできた交際だと思っていた。
だから、彼がプロポーズしてくれるなら、私は100%受ける覚悟は出来ていた。
彼となら、しっかり幸せを分かち合える自信が私にはあった。
***
私は、朝食のハムエッグを乗せた白い皿を、じっと長い間見つめていた。
・・・昨日彼の電話の”一区切り”は、私が考える”一区切り”と同じ意味なのだろうか?
・・・もしかしたら、私の早とちりで真逆の意味なのではないだろうか?
・・・彼の言った”一区切り”とは、私との決別を意味しているのではないか?
・・・そう言えば、彼の声のトーンは、いつも明るい彼のトーンとはかなり違った。
私は洗濯と掃除をしながら、常に湧き上がる不安を感じていた。
彼の言う”一区切り”という言葉が、グルグルと頭の中に渦巻いた。
私の彼に対する先入観が、彼の言葉の意味を結婚という意味に取り違えたのだろうか。
もしかしたら、彼は私の誕生日を期に私に”サヨナラ”を告げるのかもしれない。
兎に角、彼の電話のトーンが低かったのが気になった。
午後になって私は膨れ上がる不安と、その不安への否定を頭の中で繰り返した。
取り越し苦労なんだと、自分で自分を安心させたかと思うと、
その安心を嘲笑うかのように、次々と不安がこみ上げてきた。
窓の外を見ると、朝の眩しい光は消え、午後から曇りだした空が窓の形に見えていた。
私は窓の外を見ながら、”一区切り”という彼の言葉を考えて、大きな溜息をついた。
午後2時頃、彼から電話が入った。
その電話は、仕事のトラブルが発生して私を迎えに来るのが夕方になるという電話だった。
彼が担当する得意先の宴会に、何らかの不祥事が出たということで、
ホテルに急遽行かなければならない旨の連絡だった。
私は普段どおりに応対し、処理が済んだら電話をくれるよう伝えた。
私の27歳の誕生日は、どう考えても暗いほうに傾いて行くのを感じていた。
自分で止める事の出来ない何かが、動き始めているように思えた。
私は何もする気がおきず、じっとソファーに座って窓の外を見ていた。
やがて、鉛を溶かしたような3月の空から大粒の雨が降り出していた。
***
午後6時前に、彼から再び電話があった。
彼は、簡単に私に対して遅れてしまった詫びを入れた。
そして、勤務するホテルの料理長が作ってくれた豪勢な料理をテイクアウトするので、
外食をせずに、私のマンションで誕生日を祝うと言った。
20分程で着くので待っているようにと言った。
私は了解し、重い気持を背負った身体でテーブルを片付けて彼を待った。
程なくして、チャイムが鳴って彼が私の部屋にやってきた。
彼は両手にホテルの大きな紙袋を持ってドアの外に立っていた。
濡れた髪の毛は、夕方から降り続く雨の激しさを物語っていた。
彼は、疲れたような溜息とともにテーブルに料理のパッケージを並べた。
ホテルの料理長が作っただけあって、豪華な食材を使ったオードブルの高級料理だった。
そして、スープやサラダなども別の入れ物にあり、
高そうな赤と白のフランスワインも袋の中に入っていた。
彼は私に、料理を盛り付ける皿やワイングラスを出すように指示し、
ホテルの宴会担当のサービスのように、無言のままテーブルの上を準備し始めた。
私は準備に専念している彼の、無表情で不機嫌そうな横顔を見ながら、
彼に聞こえないように小声で呟くように言った。
「誕生日なんだから・・・入ってきたら、おめでとう!くらいは言えよなバ〜カ!」
私も彼の準備を横目で見ながら、不機嫌そうな顔で立ち尽くしていた。
彼は最後にスープを温め直しセットを完了した。
私は彼に促されてテーブルに付き、彼はワインを1本抜いて言った。
「27歳の誕生日、おめでとう!」
彼は微笑むことなくボトルを私のワイングラスに傾けた。
「ありがとう・・・」
私は張り詰めた空気の漂う部屋で少しだけ微笑んで礼を言った。
「しかし、すごい雨やなあ。」
彼は窓を見つめながら天気を気にして言った。
「・・・・・」
私は黙って頷いて、彼の次の言葉を待った。
「どうしたの?美咲。何か疲れているようやけど・・・何かあったん?」
彼は不思議そうに尋ねた。
「うーうん。そんなことないよ。元気だよ」
私は心と反対の言葉を返した。
重苦しい会話が暫く続き、彼はワインを口にして考え込んだり、
料理を少し食べたかと思うと溜息をついたり、落ち着かないように部屋を見渡したりした。
私は彼が、私との交際を打ち切る言葉を捜しているように見えた。
なかなか言い出せない彼の口は、別れの言葉を切り出すタイミングを図っている様だった。
普段、お酒を余り口にしない彼が、ワインを黙々と飲み続けているのが変だった。
余程、言いづらい言葉を私に言わなければならないからだと、私は感じた。
私は、絶望的な雰囲気を感じ取ったが、表情には出さず重苦しい空気の中で、
彼が持って来てくれた料理を食べていた。
本来なら、すごく美味しいはずの高級料理の味は、私には味気ない気がした。
私は心の中で”お別れを言うなら、早く言えよ・・・バカ!”と呟いた。
そして、知らない間に私の視界は、無意識に溜まった涙で滲みだしていた。
彼は飲めないワインを沢山飲んで赤くなった顔で、思い切るように言った。
「美咲・・・・あのう・・・」
私は、その時、彼の絶望的な言葉を覚悟し、彼を見つめて言った。
「何?・・・」
彼はポケットから自分の車のキーを出し、私に手渡して言った。
「悪いけど運転席の上のサンバイザーに、紙がはさんであるので取ってきてくれへんか?」
私は意味が解らず、怪訝な表情で首を傾げながら彼を見て言った。
「私が、その紙を取りに行ってくれば、いいの?」
彼は両手を合わせて、私に謝るような仕草をして言った。
「ワインがまわって、フラフラするから、お願いやし、頼むわ」
私は頷き、テーブルを立ち部屋を出た。
片方の手に彼の車のキーを持ち、片方の手には傘を持った。
・・・私が何故、彼の車に彼の忘れ物を取りに行かねばならないの?
・・・そんなことより、私に言うべき重要な話があるんじゃないの?
・・・しっかりしてるようで、実は頼りない男だったのかな?
・・・兎に角、今日は最悪のバースデーだわ。最低のバカ男め・・・。
私は心の中で、自分の心の悲鳴を感じながら彼の車を探した。
彼の黒いセダンは、マンションの傍の明るい街灯の下に止まっていた。
街灯の白く明るい光線が、降り続く雨の糸を煌々と浮かび上がらせていた。
傘を挿した私は、彼の車のドアを開け、サンバイザーに挟まる小さな紙を見つけた。
***
小さな紙には、彼の筆跡で文字が書いてあった。
車のルームライトに照らされて、その文字が私の目に入った。
”美咲へ・・・コンソールボックスを見てください!”
私はキツネにつままれたように、その紙の文字を読み返した。
コンソールボックスを見なければいけないという思いとともに、
遊ばれているような気配に、段々腹が立ってきた。
私は車内中央にあるコンソールボックスを開け中を見た。
そこにも同じような1枚の紙切れが入っており、文字が書いてあった。
”美咲へ・・・トランクの中を見てください!」
私は彼の書いた、もう一枚の紙を見て、ますます腹が立ってきた。
私の最悪な誕生日に、雨に濡れながら彼の指示に従い車のあちこちを開けている。
私は私の誕生日に壊れそうな心で、一縷の望みを掛けて彼の優しい言葉を待っているのに、
彼の意地悪で軽薄なゲームが、私を弄んでいるかのように感じられた。
冷たい雨に濡れながら私の心は、ズタズタにされていく様に思えた。
・・・結局、四年間の結末は、彼の車のあちこちをドブ鼠のように開けながら終わるのか?
・・・私の泣きたいような惨めさと悲愴感を、彼は認知した上で私を弄んでいるのか?
・・・彼の言う”一区切り”の言葉は、このゲームと何の関係があるのか?
・・・悩みと不安に泣き出しそうな私に、嘲け笑うような彼の目的は何なのか?
私は、理不尽な彼の指示に怒りと悲しみを感じつつ、乱暴にトランクを開けた。
***
私は、彼の車のトランクの中を見て、無言で立ち尽くしていた。
私の左手に持っていた傘が、アスファルトに落ちた音は自分の耳で聞いていた。
傘を持たない私の髪や、春物のワンピースを激しい雨が容赦なく打ち濡らしていた。
雨が冷たい・・・という感覚を遠くで感じながら、ただトランクの中を見つめていた。
降りしきる雨が額を伝って目に入り、視界は水中のように揺らめいていた。
車の真上から、街灯のカクテル光線が差し込み、トランクの中を明るく照らしていた。
その中には、トランク一杯に飾られた薔薇の花が綺麗に見えた。
白い薔薇、赤い薔薇がトランク一杯に隙間なく広がり、
雨の粒が落ちた花びらは、射し込む街灯の光でスパンコールのように輝いていた。
上に跳ね上がったトランクのドアから、一枚の大きな紙が横断幕のように垂れ下がっていた。
私は雨に濡れている自分を忘れたように、その大きな紙の文字を何度も読み返していた。
”美咲!結婚しよう!! 拓哉より”
私は雨なのか涙なのか解らないものを、目一杯に溜めてトランクを見つめていた。
胸の奥から湧き上がってくる熱いものが、堪えきれない感情の昂ぶりとともに混ざり、
私の身体は、ただガタガタ震えていた。
暫くして、4階の通路から大声で叫ぶ彼の声で私は我に返った。
「美咲!早く上ってこないと風邪ひくぞ!」
私はトランクを閉め、びしょ濡れのままエレベータに乗り部屋に戻った。
ドアの前の彼は、バスタオルを持ち無邪気な微笑みを浮かべながら立っていた。
私は彼の顔を正面に見て、怒りや、悲しみや、喜びや、愛おしさの入り混じった感情を、
どう表現したらいいか解らなかった。
私は彼の間近に立つなり、泣いているのか笑っているのか解らないような顔で、
いきなり彼の左の頬を、思い切り平手で叩いた。
そして、あっけに取られて立ち尽くす彼の胸に、びしょ濡れのまま飛び込んだ。
熱い涙がとめどなく流れ、冷たい雨の雫が髪を伝い、彼の胸元を濡らしていた。
彼は長いあいだ、そのままで優しく私を抱きしめ、そして顔を覗き込んで言った。
「美咲・・・俺と結婚してしてくれる?」
私は何も答えず、ただ彼の胸の中で震えながら泣いていた。
私は彼が自ら言ったプロポーズの言葉を、自分の耳で確かに聴きながら、
彼の車のトランクの中の残像を、心のスクリーンでしっかりと重ね合わせていた。
<完>
最後までありがとうございました。