第46話 ちょっとやり残したことがあるんだ
マリアが握りしめた自分の手をじっと見つめていた。
まだやり残したことがあるのだろうか——。
エヴァはあたりを見回した。
マリアのすぐうしろに、ぐちゃぐちゃになったライオンの小山ができていた。
おそらく三頭か四頭ほどが積みあがっているだろう。赤く染まって見づらいが、縞模様がかいま見えるので、すくなくとも一頭はトラだとわかる。そのすぐわきには、肉片がごろごろと広範囲に散らばっていた。ずいぶん派手に広がっていたが、八つ裂きにして四散しただけで、元は一頭のライオンにすぎない。
奥の方へいくと、二頭のオスライオンが顔をつきあわせたまま死んでいた。正確にいえば二頭の顔は、お互いの顔にめり込んでいた。マリアがたてがみを掴んで、力任せに二頭の顔をぶつけあわせたので、そんな状態になっている。
その横には盛大に内臓が飛び散っている一角があった。強烈な悪臭が漂っていて、数十メートル離れているはずなのに、すこし目が痛い。マリアがライオンの腹を蹴り破ったせいで、かなりの範囲を汚染してしまっている。だが、一番凄惨なのは、ケラドゥスの遺体がある場所の近くだった。
怒りにまかせてマリアが見境なく鉄拳をふるったおかげで、そこは肉片と血と内臓で地面が埋め尽くされていた。地面に吸い込みきれずに、数ヶ所で血溜まりができてもいた。そこにいる猛獣は、十頭はくだらないだろう。頭がぶつ切りにされているので、正確な数はわからない。
エヴァがマリアのほうへ視線を戻すと、マリアが観覧席のほうを指さしながら訊いてきた。
「あれは、おまえの仕業か。いい仕事っぷりだ」
エヴァは促されるまま、マリアが指さす方向に目をむけた。
そのとたん、周りのあちらこちらで湧きあがっている人々の哮る声や剣と剣が打ちあう音が聞こえてきはじめた。
夢うつつでぼうっとしていたのは、マリアではなく、どうやら自分のほうだというのに気づいた。
「セネカ様を焚きつけたんです」
「首謀者か……。あいかわらず、えげつないな」
「えぇ。あちらは彼らに任せて、セイさんたちを探しにいきましょう」
エヴァはそう言うと天にむかって手をあげた。ふたりの頭のうえから光のシャワーが降り注ぎはじめる。光のシャワーはすぐに服装の乱れも、汚れも、破れも……もちろん、満身血まみれだった姿も修復していった。
光がやむとエヴァもマリアも元の姿に戻っていた。
「さぁ、これで元通りです」
エヴァが声を弾ませた。
マリアはおおきくため息をついて、申し訳なさそうな顔をした。
「わりぃな……。オレはあとから合流する」
「あとから?」
「あぁ、ちょっとやり残したことがあるんだ」
「やり残したこと……ね」
もう一度、周りを見回してみた。一頭残らず肉塊にしておいて、ほかになにかすることがあるのか、エヴァには疑問だった。
「わかりました、マリアさん。かならず合流してくださいね」
エヴァは足を踏み込み手をうしろにひいて、大きな跳躍のための溜めをつくろうとした。だが、うしろにむけた手を、マリアがおもむろに掴んできた。エヴァはふりむいて、握られた手を見つめた。マリアは手のひらにぎゅっと力をこめながら、すこしうつむいて恥ずかしそうに言った。
「エヴァ。おまえには『借り』ができちまったようだ」
「そうね、マリアさん。わたし、あなたに『貸し』ができました……。だって顔いっぱいに血をぶっかけられましたもの……」
屈託のない顔でエヴァが微笑んだ。マリアはすこし弱ったような顔をして言った。
「あぁ、すまなかったな。この『借り』はいつか返す」
「はい、しっかり返してもらいます。わたしは損得勘定だけは忘れません」
マリアが握った手を緩めながら、苦笑いをかえしてきた。
「おい、おい、エヴァ。なんだかこの『借り』、えらく高くつきそうじゃねぇか」
「さぁ、どうでしょう。たぶん……安くはないと思いますよ」
「あーあー。こんな守銭奴に『借り』を借りつくるんじゃなかったよ」
エヴァはにこりと笑うと、うしろにからだをひいて、溜めを作ってから一気に空中へ飛びあがった。