第45話 セネカ!、おまえ、裏切ったな
ネロはあきらかに混乱していた。
異教徒どもの処刑ショーはすべての者が猛獣に食われる第一部に続いて、夜には磔にされた者たちが松明代わりに火あぶりにされる、第二部に続く予定だった。
だが、今、競技場内に乱入してきた兵士たちが、護衛の兵士たちと戦闘をまじえているのを目の当たりにして、我が目を疑う思いでいた。これはなんとしたことだろうか。
あちこちから聞こえてくる喧騒はさきほどまでの観客の歓声とは明らかにちがう。そこには興奮や熱狂、心躍らせるものがなにもなかった。
これはただの騒乱だ——。
「なんだ。ティゲリヌス、どうなってる」
ネロは観覧席のいたるところで起きている衝突から目を奪われたまま訊いた。
「わかりませぬ。なにものかが反乱を起こしたのかもしれません」
そこに慌てふためいた様子で、セネカが走り込んできた。
「陛下、反乱です。ガイウス・ピソが反乱を起こしました」
「な、な、なんだとぉ」
「完全に囲まれております。このぶんではもう逃げおおせぬかと……」
セネカが懐から短剣を取り出して、ネロの前に差し出した。
「恐れながら、陛下。屈辱にまみれる前に皇帝らしく、これで自害を……」
「じ、自害……だとぉ。セネカ、おまえ、このワシに死ねというのか」
「捕らえられれば、晒し者にされますぞ」
ネロはセネカの目をじっとみつめた。その目には偽りがないように見えた。
偽りがないということは、間違いなく自分に『死』を強要しているということにほかならなかった。
「セネカ!、おまえ、裏切ったな!」
ネロはセネカのさしだす短剣を引ったくると、セネカに斬りかかった。驚いたセネカはうしろに尻餅をついたが、そのせいでネロの一撃を寸前でかわす形になった。
ネロは勢いこんで前のめりになったせいで、バランスを崩してその場に跪いた。ネロの手から短剣が滑り落ち、カチャンという音がして床に転がる。
セネカがあわててその短剣に手を伸ばそうとしたが、それをティゲリヌスが遠くへ蹴飛ばした。くるくると回りながら、短剣が部屋の隅へと滑っていく。
ネロはすぐに立ちあがりながら、ティゲリヌスに命じた。
「ティゲリヌス、こやつはワシを裏切った。そちが殺せ!」
「陛下、なにをおっしゃいます。わたしは陛下、あなたのために、あなたのお母上を手にかけたのですぞ。それほどまでに忠誠を尽くしております」
セネカが声を震わせながら抗弁したが、ネロはそれを大声で否定した。
「知らぬ、知らぬ。ワシは母上に手をかけてなどおらぬ。そちが勝手にやったことだ」
セネカはあわてて立ちあがろうとしたが、ティゲリヌスが目の前に立ちふさがった。
「ティゲリヌス。そなた、わたしを殺すつもりか」
セネカが精いっぱい怒りをにじませて声をあげたが、ティゲリヌスはそんなことに構わない様子で、ネロのほうへ進言をした。
「陛下。どうにも騒がしくなって参りましたので、こんな老人は放っておいて、黄金宮殿のほうに戻りましょう」
「ティゲリヌス。セネカをこのまま放免するというのか」
「いえ、陛下。ご心配なく。ちゃんと始末いたします」
ティゲリヌスはそう言うと、空中から何かをつかむような仕草をした。手にはいつの間にか妖しく蠢く光る線虫のようなものが握られていた。
「な、なんだ、それは……」
セネカが思わず悲鳴に近い声をあげたが、ティゲリヌスは無言のまま、手の中の虫を空中にはなった。虫は閃光のように瞬いたかと思うと、競技場の四方に飛び散り、周りの兵士たちに光の針となって突き刺さった。バタバタといたるところで兵士が崩れ珞ちるように倒れていく。
「ティゲリヌスどの……。な、なにを……」
セネカの問いにティゲリヌスは不敵な笑みをかえして、その答えとした。
「皇帝陛下。黄金宮殿のほうに戻りましょう」
「敵兵が多すぎる。ティゲリヌス。そち、ひとりで大丈夫なのか?」
「ご安心を、陛下。あやつらが相手をします」
そう言ってティゲリヌスが競技場の方をさししめした。
そこに化物がいた。
いや今まさに化物に変貌しようとする何かの姿だった。先ほど金の針に射抜かれた兵士のなかの数人が立ちあがり、もがき苦しみながら、姿を異形のものに変えようとしていた。
それは人の二倍ほどの巨人。そして牛頭人身の姿だった。
セネカの口から思わずことばが漏れていた。
「ミ、ミノタウロス……」