第19話 隻眼のハンニバル
「ハンニバルさん、目、どうされたのです?」
「ああ、これか…… じつは眼病にかかって失明してしまったのだ。アルノ河流域の沼地の行軍でな。信じられんことに兵の10分の1をも失った」
「ええ、存じています」
ビジェイが言った。
「豪雨のせいで沼地と化したアルノ河流域の泥沼に、行軍を阻まれたのですよね」
「そうか、ビジェイ。やはり未来人は知っておったか。わたしが視力をうしなうこともふくめて、なにもかも」
その口調には恨みがましさもなにも感じられなかった。ただ事実を納得して受け入れているようだった。
ビジェイは控えめにうなずいた。
「あの平地は河の氾濫で沼地となり、あのアルプス越えにも比すべき試練を、われらカルタゴ軍に課してきたのだ」
ハンニバルは感情を押し殺して、淡々と語った。
「行軍していくうちに泥水は腰にまで達し、四日三晩のあいだ眠るどころか、一瞬の休息すら叶わなかった。軍靴はこねかえす泥濘に奪われ、兵は猛烈な吐瀉や下痢のはてに、泥土から抜け出す体力をうしなっていった。また軍馬も蹄鉄をうしなって蹄を冒され、悲声をあげて倒れていった。そしてわたしは……」
ハンニバルは眼帯のうえから、うしなった眼をかるくさすりながら続けた。
「一頭だけ残った戦象の上にいたが、病におかされこの眼をうしなった」
それを聞いても、わたしにはハンニバルにたいして、同情のひとかけらも湧いてこなかった。25歳の若さで将軍に任命された前途ある若者が、29歳で片目をうしなったのに、わたしは当然の報いだとさえ思った。
それどころか、数万人もの兵士を犠牲にしてまで、自分の野望を果たそうとする者にたいして、目のひとつやふたつの代償など安い物だ、とさえ思った。
「ですが、あなたはこの作戦を成功させて、ローマ軍にまたも勝利します」
父がハンニバルを持ちあげるように言った。
「ああ。それを聞いているだけで、どれほど気分が楽か……」
「それではわたしたちは、ガリア人のリスクスの警護のために西端のほうへ戻ります」
「えーーぇ。また来た道を戻るのぉ?」
わたしは反射的に不満の声をあげた。
「エヴァちゃん、仕方ないよ。ぼくらは要引揚者のリスクスさんの近くにいなきゃ、こちらの世界での『特別な能力』を使えなくなるんだから」
「ああ。なんのギフトもなしで、こんな野蛮な時代にいるのは、さすがのオレもごめんだな」




