第12話 アルプス山脈越え
「パンだ。これが我らの兵糧だよ」
そういうなりハンニバルは、そのひとつを掴んで口元に運んだ。だがそのパンは、噛みちぎらねば、口のなかに押し込むこともかなわないらしく、わたしには食べ物を食べる仕草には見えなかった。
「硬いが、凍ってないだけまだましだ。これならエヴァも食べられるだろう」
わたしは手渡された、パンらしき塊を眺めながら言った。
「あなた、司令官なんでしょ。もっといい食べ物はないの?」
「はは…… わたしは誰も特別扱いはしない。司令官のわたしであってもな」
末弟のマゴが、兄を誇らしげに語った。
「ああ、兄者は一傭兵とおなじように凍りついた食事をのどに押し込んで、陣幕をからだに巻きつけて崖下で仮眠をとっている」
「陣幕を?」
「ああ、そうさ。山ンなかにはこんな陣幕をはれるような場所なんか、そうそうありゃしない。だからからだに巻きつけるのさ」
「ふーん。どうしてそんな思いまでして、っていうことばも、ばかばかしくなってしまうわね」
わたしはハンニバルのローマ征伐への思いが並々ならないことを思いしらされた。
その後、すっかり元気になったハンニバル軍は、アルプス山脈を越えて、ついにローマ属領地ガリア・キサルピナ、という場所に降りたったハンニバルは、アルプス越えで疲弊した兵士たちに、二日間の休みをとらせた。
アルプスの下山は、登山のとき以上に被害がおおきかった。
凍ってすべりやすい坂道は、登りより降りるほうが踏ん張りがきかないのだから、当然といえば当然だった。
衰弱した兵士があちこちで、滑落していった。凍った道で踏ん張りきれなかった。
わたしたちが守っていたリスクスも、一度足を滑らせ山坂を滑っていった。ローガンと父が飛びついてとめなければ、そのまま谷底へ落ちていた。
もしかしたら、実際の彼はここで命を落としたのかもしれない。
また登りと同様、暴れた象が足を滑らせ、それを抑え込もうとした兵や象使いたちが、巻き添えをくらって谷底へ落ちていった。兵糧や武器もろともうしなうことになったが、ハンニバルは顔色ひとつ変えなかった。
兵士たちが休息しているあいだ、ハンニバルと弟たちは、ガリア・キサルピナの現地部族を懐柔し、自軍に編入しようと奔走していた。だが戦う前から疲れ切った顔をしていたカルタゴ軍に味方しようとする者は少なかった。
出立の日——
ハンニバルは捕虜にしたガリア人たちに、決闘をして勝った者に自由と武器・馬を与えると申し出た。
わたしはなにかの見せしめだと思ったから、とてもいたたまれない気持ちになったけど、ガリア人は全員が決闘を希望した。
わたしたちが守るべき、リスクスまでもが戦いを望んだので、父たちはそれをなだめるのにずいぶん苦労した。




