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ぼくらは前世の記憶にダイブして、世界の歴史を書き換える 〜サイコ・ダイバーズ 〜  作者: 多比良栄一
ダイブ3 クォ=ヴァディスの巻 〜 暴君ネロ 編 〜
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第30話 今、この偉大な芸術家はその機会を得たのだ

 目の前でローマが燃えていた。


 スポルスは燃えさかる大火が、夜の闇をおおきな赤い舌ではぎ取っていく様子を呆然とした様子で見ていた。

 あれはローマの街が燃えているのではない。ローマの歴史そのものが消え去ろうとしているのだ。火は貴族の住むパラティーノの丘も、庶民地区のスブッラも飲み込んでいった。共和政時代からの名家の邸宅であろうと、庶民向けの粗末な五、六階建て住宅「インスラ」であろうと、貴賤(きせん)を問わず平等に燃やし尽くした。

 スポルスの心にぽっかりと胸が空いて、空虚感がじわじわと支配する。

 

 ネロはこの一大スペクタクルの観覧席に、ローマの街を一望にできるマエケナス神殿の塔を選んだ。その場にはスポルスだけでなく、ティゲリヌス、ペテロニウス、セネカたちも呼ばれていた。予想もしないこの惨事を、皆、押し黙ったままじっと見つめていたが、ティゲリヌスだけなにか含みをもった笑みを浮かべていた。

 この男はなにかを知っているーー。

 スポルスはそう直感したが、悲痛な思いにそれ以上考えを及ばせる気力がなかった。

「セネカ、どうだ。このすばらしい眺め。呼ばれたかいがあっただろう」

 そう言ったネロは舞台用のきらびやかな衣装をまとっていた。手元には竪琴の「チェトラ」を抱えている。このような国家の一大事にはもっともふさわしくない格好だ。

 すこし間があったが、セネカが意をけっして口をひらいた。

「陛下、ローマの街が燃えているのですぞ。悲しむべきことではありませんか」

「まさに。まさに悲しむべきことなのだ。セネカ」

「みな、あふれんばかりの我が才能を哀れんでくれるがいい。我が街が燃え尽くされようというのに、ワシの才能はそれに刺激され、大いなる創造の喜びに突き動かされようとしている」

「しかし、陛下、早く市民を救わねば……」

「セネカ、セネカ、セネカ。もうおまえはワシの教師ではないし、政界から退いた身ではないか。命令口調はやめろ」

 ネロが威圧的な目をセネカに投げつけると、そのままバルコニーのほうへゆっくりと近づいていった。

 まるで燃えさかるローマの街の火にあてられたかのようにネロの顔は上気し、一歩一歩前に進むごとに、恍惚(こうこつ)に身悶えするようなからだをよじらせる。

「ワシはつねづね考えておったのだ……。ワシほどの才能に恵まれたものが、なぜに先人への羨望(せんぼう)を押さえられなかったか……」

 ネロはくるりと振り向いて、臣下たちのほうを見て話を続けた。

「かの偉大なるホメロス……。彼はトロイの炎上を目の当たりにして、『トロイの陥落』を(うた)うことで『イリアス』という傑作をものにできた……」

 ネロがじぶんの顔を手で被って、いかにも悲痛という素振りを見せて言った。

「なれば、なぜにこのネロに、才能が湯水のごとく溢るるネロに、そのような作品が作れぬのか……」

 ネロがそこにいる者たちの顔をひとりひとり見据えて問うた。ペテロニウスに、セネカに、そしてスポルスにも……。

「簡単な話だ。そう、ワシは『トロイの炎上』を見てないからだ」

 両手をおおきくひろげて自信満々にネロが披瀝した答えに、セネカやペテロニウスが驚愕の表情を浮かべた。

「だが喜ぶがいい。今、この偉大な芸術家はその機会を得たのだ」

 セネカが狼狽を隠しきれないまま、声を震わせながら訊いた。

「ま、まさか……。陛下。そのために火を放ったと……」

「セネカ——。なぜ、ワシがそのようなことをする?。これは神の代理であるワシに与えられた試練であり、贈り物なのだ」

 にこやかな顔で堂々と言い放ったネロは、いまだ凍りついて微動できずにいる臣下たちの様子などおかまいなしに、竪琴をもちあげて吟じはじめた、


 だまれ天よ〜。静まれ流れ星よ〜。わたしの頭上の天窓よ、開け〜

 ついに見た〜、オリンポス

 頂の光がふりそそぐ、神々とともに不滅な我にぃ〜

 我はネロ〜、芸術家

 炎で生涯の家をこの世に築くぅ〜

 猛り狂う熱き炎よ、ローマを奪え〜

 過去の都はおまえのものぉ〜、地獄となってなめつくせ〜

 燃えろ、古きローマ、燃え上がれ〜


 ネロは謡いおえたあとも陶酔した様子のまま、しばらくその余韻に浸ってみせた。まるで暗に拍手を待ちわびているかのようですらあった。

 スポルスの目からふいに涙がこぼれ落ちた。自分の愛したローマが、この狂人の戯れ言のために、焼き尽くされていく様を見ることも、考えることも、もう耐えられなかった。

「どうじゃ。ペトロニウス……」

 ネロはこれ以上ないほど満悦の表情でペトロニウスに感想を求めた。それに異議を唱えることなどは、あり得ないほどの威圧感がそこにあった。ペトロニウスは顔を強ばらせたまま、なんとかことばを咽から押し出した。

「あ、あまりに素晴らしく……。こ、心奪われてことばがでてきません。なぜ陛下がホメロスごときを羨まねばならぬのでしょう。ホメロスがこの時代にあったら、羨むべきはホメロスのほうかと……」

「うほほほほ……。ペトロニウス、おまえの評論はあいかわらず的確だな」

 ネロは満面の笑みを浮かべたままスポルスのほうへ顔をむけた。

「スポルス、おまえはどうだ?」

 スポルスはどう返事していいかわからなかった。だが、気づいた時には濡れた瞳で、ネロを睨みつけていた。怒りと嘆きがないまぜになった譴責(けんせき)の視線で。

 その眼力にネロが一瞬たじろいだ。だが、すぐに興味なさそうな目で侮蔑した。


「は、おまえのような卑賤なものに、わかるわけもなかろうな」


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