第217話 アニー・チャップマンの遺体
犯行現場に近づくと、フレッド・アバーライン警部が駆け寄ってきた。
「セイさん、皆さん、待っていましたよ」
我慢できなかったのだろう、スピロが急ぎ足で近づいていき尋ねた。
「アバーライン様。犯行はいつごろ起きました?」
「ああ、スピロさん。まだはっきりと断言はできんが、朝5時半頃だと思う。そこにいるアンドリュー巡査が深夜巡回中に発見した」
「5時半頃…… 本来の犯行と時間はおなじというわけですね」
「今回は場所だけを変更してきた、ということですね」
エヴァがため息まじりに言った。
「アバーライン様。アニー様を見てもよろしいでしょうか?」
「ああ、ぜひ。すでに嘱託医のフィリップス医師が仮検死をおこなったあとだ。もうすこししたら、オールド・モンタギュー・ストリートの死体仮置き場に運ばれる予定だから、手早くお願いするよ」
アニー・チャップマンは、一気に咽喉を切り裂かれたメアリー・アン・ニコルズとちがって、抵抗したあとが残っていた。
彼女は手も顔も血まみれだった。長い黒いコートとスカートはたくしあげられ、下腹部は露出させられていた。腹部はめちゃめちゃに切り裂かれていて、腸が引きずりだされ、それを右肩のうえにかけられていた。
セイはその凄惨な死体に顔をそむけそうになった。
「子宮、膣の上部、膀胱が抜き取られて、持ち去られているはずです」
スピロが死体の脇で子細に検分しながら言った。あらぬ方向にねじれているアニーの頭のほうに目をむけた。首にはなぜかハンカチが巻かれている。
「頬に擦過傷がありますね。背後から口をふさがれたときに、揉みあって切ったのでしょう。かなり抵抗したようですが、咽喉を掻き切られてしまっては、どうしようもなかったことでしょう」
「殺害後、犯人は首を切断しようとしたようですが、気が変わったのか、時間がなかったのか、途中でとりやめています。ハンカチがあてがわれていますが、ほぼ切り離されています」
セイは変な向きを向いているアニーの頭の理由に合点がいったが、とても長いあいだ正視してようとは思わなかった。それはエヴァもゾーイもおなじらしく、さりげなく視線をはずしている。
ただマリアだけは、そういう耐性にすぐれているらしく、近づいてまじまじと見ていた。
「場所こそ異なっていますが、史実とまったくおなじ殺され方をしているようです」
スピロが立ち上がりながら言った。
「これで切り裂きジャックの正体を特定するチャンスは、あと二回となってしまいました」
「スピロ、これからどうするつもりなんだい?」
「次の犯行、第三、第四の犯行が続けざまに行われる『ダブル・イベント』は約一ヶ月後です。悪魔はたぶん時間を早めてくるでしょうけど、まずは今回のことから、次回の作戦を練らねばならないでしょう」
「お姉さま、でも次回は、こちら側が圧倒的に不利なんじゃないかい」
「ええ、わかってます、ゾーイ。二箇所で殺人が起きる上、凶行現場がイーストエンドとウエストエンドと、やや離れた場所になります。人手があればと思うのですが、今回同様、文士の方々の協力は得られないでしょうから、きびしいでしょうね」




