第215話 レザー・エプロン
「おかしいです」
スピロはセイにむかって囁いた。
「もうなにかがあってもおかしくない時間です」
「場所はほんとうにまちがいない?」
「はい。それは絶対です。番地までわかってますし、写真でも残っているのですから。それに……」
スピロは裏庭の一画、水道栓がある場所を指さした。水道栓のすぐ脇に水浸しになった古いエプロンが落ちていた。
「レザー・エプロンです」
「レザー……エプロンって……」
「はい、セイ様。犯行現場に落ちていたこのレザー・エプロンのせいで、この第二の犯行から、犯人は『レザー・エプロン』と呼ばれるようになるのです」
「だって、これは犯行の前から落ちてるじゃないか」
「ですが、このレザー・エプロンのせいで、肉屋、靴職人、屠殺人らが、犯人として疑われ、おびただしい数の人々が拘引されました。のちの調査でこのエプロンが、ここの住人が捨てたものとわかるまでね」
その瞬間、かなたから大時計の鐘をうつ音が聞こえてきた。
スピロは信じられない思いだった。鐘の音が聞こえてきた方向へ、いつの間にか顔をむけている。
「あれは、スピタルフィールズ教会の大時計の音ですわ」
ネルのそのことばはスピロの耳にはいらなかった。
「ろ、六時の鐘……ですよね」
「ええ、たぶん、そういう時間でしょう?」
スピロはおもわず額に手をやった。
なにが起きたのか——
なにを仕掛けられたのか——
「お姉さま、大丈夫かい?」
「ええ…… いえ……ゾーイ、わたくしたち、たぶん、また悪魔に出し抜かれました」
「出し抜かれた?」
「はい。アニー・チャップマンが……切り裂きジャックがここに現われませんでした」
そのとき、ガタンと音がして隣の貸間長屋の裏口が開いた。
とっさにゾーイが力を使い、全員のからだを浮遊させた。おかげで仕切り塀の上から向こう側を覗けた。
裏口から出てきたのは、しっかりと身支度をととのえた中年の男性だった。彼は裏庭に出てくると、そのまま出口のほうへ歩いていった。
「あれは?」
セイの質問に、スピロはため息まじりに答えた。
「あの馭者がアニー・チャップマンの第一発見者です。あの方がわたしたちの足元の仕切り塀の脇に倒れている彼女を発見するのです」
「でていっちまったよ」
「ええ、ゾーイ。つまりここで起きねばならなかった凶行が起きなかったということです」
スピロは落胆の思いが強かったが、ゾーイへ命令した。
「ゾーイ。マリア様とエヴァ様に連絡をとってください。どこかで合流しましょう。今後の対策を練らねばなりません」




