第29話 きみにはネロを倒してもらわなくちゃいけないんだ
スポルスはペテロの立つ岩のすぐ下に五指を組んだままひざまずいていた。
「スポルスだ。スポルスがいる」
セイはうしろのマリアとエヴァにそう叫ぶと、前に進み出ようとした。が、その手をマリアがぐいと掴んだ。少女の力とは思えないほどの握力で、セイの腕をぎゅっと握りしめていた。
「セイ。スポルスは逃げやしねぇよ」
「セイさん。ペテロ様の説教が終わるまで、待っていただけますか?」
マリアの声も、エヴァの声も威圧的で、反問はけっして許さない雰囲気を帯びていた。
セイはため息まじりに上をみあげると、『神様ぁ……』と心のなかだけでひそかに愚痴をこぼした。
ペテロの説教が終わり聴衆がペテロのまわりを取り囲みはじめたところで、セイはスポルスのほうへむかった。スポルスはペテロの一番ちかくにいたが、セイは人々のあいだから無理やり手を伸ばして、スポルスの腕をつかんだ。
はっとしてふりむいたスポルスはセイの顔を見るなり、自分の口元に手をあてた。
「セイ!。あなた……」
「スポルス!。なぜ、キミがこんなところにいるんだ?」
セイはスポルスの腕をひっぱって、人々のなかから出てくるように促した。
「スポルス、ネロは、ネロはどうなったんだ?」
「抜け出てきました。わたしは皇帝陛下……、いえ、ネロのところから逃げるつもりです」
「逃げる?。もしかして、あれからひどい目にあったのかい?」
スポルスは首を横にふった。
「いいえ。あれからネロはわたしを遠ざけこそすれ、ひどい目に遭わせることはありませんでした。ですがいつも汚物でも見るような目をむけられて……」
そのとき、ペテロに近づこうと人々のあいだを縫うようにしているマリアとエヴァの姿をみつけて、スポルスが叫んだ。
「エヴァさん」
驚いてエヴァが足を止めると、スポルスがエヴァの前に突然ひざまずいた。
「エヴァさん。あなたがあの時、見せてくれた慈悲の心にわたしは感銘を受けました」
「あのとき?。あのときっていつだ?」
スポルスのエヴァへの態度をみて、不満そうにマリアが問いただした。
「鞭使いのパオンの時、あなたは死者に対して慈愛の情をしめされました。あれから、私はひそかにキリスト教の教えを学びました。そして、今、ペテロ様の元に通い、主の教えを学んでいるのです」
セイにはマリアの表情がますます悪くなっていくのがわかった。
「おい、おい、なんでエヴァなんだ?。本来はカトリックのオレの役割だろうが、それは?」
「あ、いえ、そんなたいしたことした覚えは……」
マリアの当てこすりを聞き流して、まんざらでもない表情のエヴァに、マリアがさらに気分わるそうな顔になった。
「は、マリア、おまえの迂闊な行動が、ここの『歴史』を狂わせてしまったようだな」と言ったところで、はたと気づいたらしく、すぐに「まぁ、といっても、オレたちは、『歴史』を変えるためにここに来てるんだけどな……」
セイはふたりのちょっとしたいざこざなどは無視して、スポルスに事実関係だけを訊くことにした。
「スポルス、逃げると言っても簡単じゃないはずだ。ネロは?。ネロがキミを探しているんじゃないのか?」
「あの男にはそんな余裕はありません。このローマの大火事の後始末が忙しく、わたしがいなくなってもしばらく気づきはしないでしょう。わたしはこの機会を逃したくありません。わたしは、このままペテロ様と行動を共にするつもりです」
セイは信じられない思いだった。本来の歴史はそうなっていないのに、自分たちが改変する前にちがう方向へずれ始めている。焦る気持ちが募ってきて思わず声を荒げた。
「ダメだよ、スポルス!。きみにはネロを倒してもらわなくちゃいけないんだ!」
いくぶん脅迫めいた言い方だったが、スポルスは力なく首をふった。
「ごめんなさい。セイ。もうどうでもよいです」
「わたしはもうあの男と一緒にいることに耐えられません」