第155話 メアリー・アン・ニコルズの死体
メアリー・アン・ニコルズ(43歳)は、厩舎のゲート前の通路の溝に平行して、仰向けに倒れていた。
スカートは腹までめくれ、両手を開いて、左手は厩舎跡の門のほうに伸ばしていた。
明かりをむけると、そこにはむごたらしい犯行の痕が容易にみてとれた。
スピロは彼女の脇に屈みこもうとした。が、スカートのうしろをふくらませている『バッスル』が邪魔でうまくかがめない。スピロはため息をつくと、お尻に手をまわして、腰当てを引き抜いた。
その貴婦人らしくない仕草に、やじ馬のなかの何人から、おどろきの声があがるのが聞こえたが、スピロは気にすることなくニコルズに顔を近づけた。
彼女の死体からアルコールの臭いがした。報告書では強いジンの臭いがした、とあるので、おそらくこれがジンの臭いなのだろう。
左の耳下から咽喉の中央にかけて4インチの切り傷、さらに右耳下から左耳下への、頚動脈を切断するほどの長くて深い傷があった。いや、傷と形容するのは語弊があった。あまりに深部にまで裂かれていて、頭部がからだから切断されそうになっているからだ。
血管、声帯、食道を切断し頚椎に達している。彼女に声を立てる余裕などあろうはずがない。
スピロは彼女の下半身に目をむけた。
粗末な赤褐色のアルスター・コート、褐色の上着、黒い木綿のスカート、黒のウール靴下——
おそらく下着をみれば、ペチコートにコルセットなどしっかりと着込まれているだろう。それはこの当時の標準的な下層階級のおんなの服装だった。どんなに貧しくても、粗末ながらもしっかりとした身なりをしているのだ。
服の下がどうなっているのか、ここで見ることはできなかったが、おそらく腹部には無数の切り傷があるはずだ。そして下腹部はおおきく二回えぐられている。一撃はふとももから臀部まで突き抜け、もう一撃は下腹部から胸骨にまで達するほどの強烈なものだ。
検死をおこなった警察嘱託医の報告書に、そう記載されていたはずなのでまちがいない——。
「お、医者がきたぞ」
やじ馬の中の誰かが言ったのを聞いてスピロは立ちあがった。集まっている文士たちのほうへ戻ると、その中心に進み出て尋ねた。
「このなかでどなたか犯人を見た方がいらしゃいますか?」
みな黙って下をうつむいたままだった。
スピロは厳しい目つきで、全員の表情をみまわした。誰もがばつのわるそうな表情をうかべて、各々を牽制するように目配せをしてばかりいる。




