第141話 スピロ、H・G・ウェルズに懇願する
「あのぉ……」
ウォルター・シッカートを尾行して、ホワイトチャペル界隈までやってきたゾーイは、暗がりからふいに声をかけられておどろいた。
フロイトとブラム・ストーカーはゾーイのうしろについてきてはいたが、道中ずっと会話に夢中で、自分たちにむけられた声に反応すらしなかった。
街角の暗がりから現われたのは、H・G・ウェルズだった。
「ウェルズさんかい。おどかしっこはなしにしてくれないかい?」
「ああ、ゾーイさん、ごめんなさい。でも自分だって、こんなところでたったひとり、見張りをさせられて、かなり心細かったンですからぁ」
そう泣き言めいたことを聞かされて、ゾーイは彼に与えられた役割を思いだした。
「では、たいへん申しわけないのですが、ウェルズ様。おひとりでホワイトチャペル駅周辺を見張っていただけますか?」
そのとき、スピロはとても申し訳なさそうに、ウェルズに言った。
「じ、自分ひとりでですかぁ」
「えぇ。スティーブンソン様がどうしてもワイルド様と一緒でないと、承服できないと申すものですから」
「あぁ、そうだとも。俺様は成功をおさめた作家なんだぞ。そんな作家志望の学生なんぞと組めるものかね。まぁ、作品はあとで見てやってもいいがな」
「弱りましたね。ワイルド様はわたしとセイ様と一緒でないと協力しないと、言っておりますし……。これでは手助けされてるのか、足をひっぱられているのか……」
ウェルズは弱り切ったスピロの様子をみて、気をつかってくれた。
「スピロさん。わかりましたよ。自分はひとりで見張りをやります。あんな高名な先生と二人っきりっていうのは、自分もさすがに居心地がわるいですから」
「ありがとうございます。ではお願いします。外部からホワイトチャペルへはいってくる、怪しい人がいたらチェックしておいてください」
「怪しい……ですか。真夜中にあんな街にやってくるヤツって、たぶんみんな怪しいと思うンですけどね」
「わかっています。ですが容疑者と目される人物で、所在を確認できなかった人物が数人います。今回の事件でわたしたちは犯人を、とりおさえられると信じていますが、もしうまくいかなかった場合、その怪しい人物が重要になります。すくなくともニコルズ様の事件のとき、現場にいたというわけですからね」
「わかりました。自分はまだ学生ですし、文士の先生方と同列に扱ってくれっていうのもおこがましいです。捜査の一員に加えていただけるだけで光栄です。怪しいヤツらをかたっぱしからチェックしますよ」
そう言ってスピロの懇願をH・G・ウェルズはこころよく引き受けてくれたのだ。




