第137話 メアリー・アン・ニコルズを尾行
あたりがやけに煙ってきた。
ホワイトチャペル・ロードに面した、オズボーン・ストリートの角にある建物の、薄汚れたレンガの壁に身を寄せながら、セイは空を見あげた。
空はさらにかすんで見えた。
真夜中だから、というだけは簡単に納得できない。
それほど陰鬱な靄があたりの光を飲み込みはじめていた。すくなくとも、前回来たときとは様相がちがう——。
目をすがめて上空で待機しているはずの、エヴァのピストル・バイクの位置をさぐる。ヘッドライトの光はかすかに見えたが、どうやってもバイクの姿は確認できなかった。
「こんなにけぶってて、エヴァは、こっち見えてるのかなぁ」
つい不安が口をついてでると、スピロがそれに答えた。
「セイ様のご心配もごもっともです。この霧はあきらかに不自然です。おそらく悪魔が画策しているのでしょう」
セイは10メートルほど先の建物の壁に、寄りかかっている女性の姿に目をこらした。セイたちはずっとその女性を尾行していたが、よほど気分がすぐれないのか、すでに10分以上も壁にもたれかかったままだった。
その女性はメアリー・アン・ニコルズ。
第一の被害者——。
彼女を尾行しているのは、セイを含めて6人だった。
セイ、スピロ、モリ・リンタロウ、オスカー・ワイルド、そしてロバート・スティーブンソン。さらに加えて案内係のピーターがまだくっついてまわっていた。
「このままだと、被害者のあのひとを見うしなうんじゃあ?」
「見うしなう?。それはどういうことだい、セイ」
ピーターが不思議そうな顔でたずねてきた。
「いや、こんなにあたりが霧に包まれているんだよ。見えなく……」
「なにを言ってるんだい。ぼくにはいつもと変わらないけど?」
セイはこの場所に慣れ親しんだ者には、これくらいの暗さは、許容範囲内なのだろうかと思ったが、スピロはその意見に違和感を感じたらしい。
「ワイルド様、スティーブンソン様、貴方がたはどうです?。あそこにいるメアリー・アン・ニコルズ様は見えていますか?」
「見えているとも、着古したドレスを召したレディの姿がね。スカートのうしろに、まぁずいぶん派手なフリルとリボン、それに袖のふくらみも控えめ……。こう言ってはなんだが、あれは80年代前半のスタイル。少々、流行遅れの格好だね」
ワイルドがすこし皮肉をこめて卑しめると、スティーブンソンも辛辣なことばを重ねた。
「そうだ。俺様にも見えてるよ。飲んだくれのババアが酔っぱらってんのがなぁ」
「おふたりとも、そういう言い方はご婦人に失礼ですよ。そりゃ、小生の母親ほどの歳に見えなくはないですが……」
「リンタロウ様、あなたも充分失礼ですよ」
リンタロウのことばをスピロがたしなめた。




