第112話 切裂きジャック事件 概要1
驚きのあまりおもわずその名を口にしたことを、スピロは反省していた。
セイはそんなことは瑣末なことだと思っていたが、みずからその名を口にしないように『シリアル・マーダラー』や『レザー・エプロン』と呼ぶように厳命していただけに、スピロは恐縮することしきりだった。
その名が文士連中の前にさらされたことで、その名で話をすすめるしかなくなったスピロは、逆にひらきなおった。
その名をふんだんに盛りこんで、これからおきる「切り裂きジャック」の事件を端的に語った。
本来あるべき歴史での事件の発端は、今回のマーサ・タブラムの事件と言われている。
マーサ・タブラム(39歳)は『バンク・ホリディ(祝日)』の翌日、8月7日午前3時頃、ホワイトチャペル・ロード近くのビル一階の階段の踊り場で見つかった。
仕事終わりの辻馬車の馭者によって発見されたマーサは、喉に九カ所、胸部に十七カ所、腹部に十三カ所の刺し傷があった。凶器は長いナイフか外科用のメスと考えられ、動機は喧嘩やものとりではなく衝動的殺人と警察は推理した。怨恨の線で捜査はおこなわれたが、結局、犯人を特定することができなかった。
マーサは結婚して二児の子供があったが、深酒が原因で離婚すると、あたりまえのように身を持ち崩し、街娼にまで落ちぶれた。この夜も酒を飲むのと、客を物色するのをかねて居酒屋にきていた。
このマーサ・タブラムの殺人は、公式の見解では『切り裂きジャック』の犯行には含まれていない。
それは肉体を刃物でめった突きしただけで、切り裂いたり、切り取った形跡がないからだったが、これも『切り裂きジャック』の仕業であったとする専門家もある。実際、担当主任のアバーラインやアバーラインの上司の副総監兼CID部長のアンダーソン警視監は、この事件こそが第一の事件だと主張している。
だがこの時はまだ、スラム街で起こった単なる売春婦殺しでしかなく、一般大衆もマスコミも興味や関心をもっていなかった。
公式的に「切り裂きジャック」の最初の犠牲者がでたのは、その24日後、8月31日のことだった(8月末といってもロンドンは昼間で摂氏15、6度、夜になると11、2度しかない。かなり肌寒かったので、だれもがコートを着込んでいた)。
被害者はメアリー・アン・ニコルズ(43歳)、通称ポリー。娼婦だった。




