第109話 ロバート・ルイス・スティーブンソン
「ドクトル・フロイト。申し訳ない。あとひとりで終わりますので、いましばらく時間を」
ワイルドはうやうやしく会釈すると、ストーカーの隣、セイの正面にいる男をさししめした。
「彼が『ジキル博士とハイド氏』で飛ぶ鳥落とす勢いのロバート・ルイス・スティーブンソン氏(38歳)だ。今はアメリカ在住だが、ここのところは南の島を物色しているらしい。ロバート、島をまるごと買い占めるつもりかね」
1888年当時のスティーブンソン
「オスカー。そんな紹介の仕方があるかね。それではまるで俺様が成金のように思われるじゃないか。まぁ、実際にお金はあるがね。ワッハッハッハ」
スティーブンソンはひ弱な哺乳類を思わせるやさしい目をしていたが、成功をおさめたことで、顔には自信が満ちあふれていた。豪放磊落にふる舞うことで、生来の臆病さを糊塗しようとしている印象を受ける。
「舞台の『ジキル博士とハイド氏』が好評でね。ロングランの契約を結ぶために、もどってきたんだが、まぁ、ロンドンはあいかわらずひどい煙と臭いだね。澄みきった空気の南の島がもう恋しいよ。ワハハハハ」
スティーブンソンは口髭を指でなぞりながら、豪快に笑ってみせた。
「いや、うらましい限りですよ。『宝島』のヒットのあとに『ジキル博士とハイド氏』が売れて、さらに舞台劇も大当たりして、いまや美しい南の島で悠々自適な生活とは」
ワイルドがおべっかともとれることばで、スティーブンソンを持ちあげた。
「そう言えば聞いたぞ、ワイルド。貴様、先日アメリカ公演の際、税関でひと悶着おこしたらしいな」
「なにをですかね。税関で持ちこんだもので申告するものはないかと聞かれたから、『類いまれなる才能』を持ち込んでいる、と答えただけですが?」
「それだよ、それ。もちろん、独創的になるには、そう生まれつくしかない。だが、貴様はあまりに自己愛が過ぎるのだ」
「ホント、『ナルシシスト』もいいところですわね」
エヴァがぼそりと呟いた。どうやらワイルドの高慢な態度が、どうにも我慢できかねたらしい。
「は、エヴァ、おまえが言うな。おまえも充分『ナルシシスト』の素養充分だ」
マリアがそうからかうと、ワイルドがエヴァに尋ねた。
「『ナルシシスト』?。なにかね、それは?」
「そ、それは、まぁ、あなたのように自分への愛が強すぎるひとのことで……」
そこでエヴァはことばに詰まった。すぐにスピロに目線を送って助けを求めた。
「ギリシャ神話の美少年ナルキッソスが、水面に映る自らの姿に恋をしたというエピソードに由来している心理学用語です」




