第18話 イエス・キリストとかいうやつをとらえて八つ裂きにせい
パオンがデモンストレーションとでもいうように、エヴァの目と鼻の先に鞭をしならせた。当たりそうで当たらない寸止めの間合い。だが、その軌跡はあまりにも速く、常人ではとても見切れそうもない。
パオンがエヴァに言った。
「なかなかいい女じゃないか。簡単に殺すには惜しいな」
「あら、お褒めいただきありがとうございます。パオンさん、あなたもたくましくて素敵ですよ。わたしの好みではないですけど……」
「ふ、だがな、この鞭をたっぷり喰らえば、おまえはオレの前に跪いてすがりつくようになるだろうて」
「あら、それは怖いですわ……」
エヴァが言い終わらないうちに、パオンの左腕が動いて左側の鞭がエヴァのからだの右側から斜めに伸びてきた。が、エヴァは絶妙な角度でくるりとからだをずらす。鞭の先はそのままグラウンドの乾いた砂をかきあげただけだった。砂ぼこりがふっと舞う。
「マリアさんのライオンはどうかと思いましたが……」
間髪をおかず、パオンの右側の鞭がエヴァが避けた方向にむけて放たれていた。が、エヴァは急がず、慌てず、きれいな側転をきめて、その鞭の先をかわした。
「わたしの相手の、この鞭使いもはずれですわね」
二連発の鞭をはずされたパオンは、今のは遊びだと言わんばかりにさらに鞭のスピードをあげた。縦横無人にしならせ、エヴァを威嚇する。己の鞭さばきに酔いしれているのか、パオンは心持ち上気した顔で口元から涎が垂れ落ちそうなほどだらしなく開きはじめた。
「うへへへへ。どうだ。この鞭さばきは」
エヴァはうんざりして肩を落とすと、胸の前で両方の手のひらを近づけた。指と指を組み合わせ、まるで見えないボールを抱え込んでいるようなポーズをとる。その手の空間に一瞬、フラッシュが瞬いた。光が収まったと思うと、その手のなかにオートマティックの銃があった。
「お嬢ちゃん。そろそろ本番だぜ」
パオンが目をギラつかせて、前に歩をふみだした。
エヴァは銃をもった手を前に突き出すと、なんの躊躇もなく引きがねをひいた。
パンという乾いた音が響いて、パオンがその場に倒れた。
「な、セイ。あいつえげつないだろ。この時代にない武器だろうと構わず出しやがる」
呆気にとられているセイの横で、マリアが肩をすくまながら言った。
聞いたこともない音とともに、鞭使いのパオンが崩れ落ちたのを目の当たりにして円形競技場はふたたび静まり返っていた。いま観衆の視線はエヴァだけに注がれていた。とうの本人はまったくそれを気にすることなく、すたすたとパオンの元に近づいていく。
眉間を撃ち抜かれてパオンは絶命していた。
エヴァがパオンの脇に片膝をついた。
「もう一回死なせちゃったけど、許してくださいね」
エヴァはそう呟くと、胸の前で十字をきった。その瞬間、観衆のなかから非難めいた声があがった。
「あれは、キリスト教とかいうやつじゃないのか」
「あぁ。町外れであやしい集会を開いているとかいう邪教の祈りのポーズだ」
その非難の声は、それまでの静寂の借りを返すかのように、場内をうねりはじめた。
玉座の前に立ち尽くしていたネロが、目をカッと見開いた。パオンの活躍をよく見ようと玉座から立ちあがって前に進みでていたネロは、ものすごい勢いでうしろを振り向いた。
「ティゲリヌス。あ、あれは、なんなのだ」
ネロは玉座の横に控えていたティゲリヌスに怒りちらした。
「あれは、最近、人々の心を惑わしていると噂されている『キリスト教』とかいうものだと聞いております……」
「な、なんじゃ、それは!。ワシはそんなもの許可したおぼえはないぞぉ」
「はあ……。そのような邪教、皇帝陛下のお耳にいれるまでもないかと……」
ティゲリヌスに詰め寄ったネロが目と鼻の先に指先につきつけて叫ぶ。
「なにを言っておる!!。何事も『神』であるワシに届けでねばなるまいがぁぁぁ」
「いや、しかし、彼らは別の神を信じておりまして、その神の前では人はみな平等であると言っております」
ネロの怒りは収まらなかった。顔をゆでダコのように真っ赤にしていきり立った。
「だ、だ、だれが、そのようなことを!」
「イエス・キリストとか……」
「そ、そいつを引っ捕らえて、八つ裂きにせい」
「陛下、その男はもう何十年も前に磔刑にて死んでおります」
「うんむむむむむむ」
腹の虫がおさまらない様子のネロが、ドンといきおいよく玉座に座り込んだ。そのあまりの勢いに隣の席で縮こまっていたスポルスが「きゃっ」とちいさな悲鳴をあげた。
「ティゲリヌス。次は、ケラドゥスだ。チャンピオンに首をかならず首を狩らせろ」