第92話 ジグムント・フロイト登場
ドアが乱暴に開いてその主が怒鳴り声ごと、部屋のなかに飛び込んできた。
「ミスター・ワイルド!。どういうことかね。主催者がこんなところに隠れて顔も見せんとは!。わが輩はドイツからわざわざ来ておるのだぞ」
ワイルドはあたりに怒りをぶちまけている主の顔をみると、すっくと立ちあがりおおきく手をひろげて、歓迎の意を大袈裟にあらわした。
「これは、これは遠いところからわざわざ御足労いただきありがとうございます」
「ドクトル(ドクター)・フロイト」
1991年頃のフロイト
「ドクトル・フロイトって……。ジグムント・フロイトですか?」
エヴァが反射的に声をあげた。自分の名前が若い女性の口から発せられたことに、そのジグムント・フロイト(32歳)はぎょっとして、すぐにエヴァのほうに目をむけた。
ユダヤ人らしく鼻の下と顎に髭を蓄えていたが、髪の毛のほうはいくぶん後退気味になっており、七三にきっちりと分けられている分け目は少々上のほうにあがっている。だが、その卵型の顔の形をみると、それほど歳をとっているふうには見えず、30代、いっても40代前半くらいではないかと思われた。だが、その峻厳な目つきはひとめで、なにかの研究者であると思わせるだけの鋭さがあり、それと同時に機転が利かない堅物であるというのもうかがい知れた。
フロイトは手にしている葉巻を口元に運び、ひと吸いすると紫煙を吐き出しながら訊いた。
「なぜわが輩の名をご存知なのですかな?。お嬢様」
「だってあなたが提唱した『精神分析(Psychoanalyse)』は有名ですからね」
エヴァが肩をすくめるようにしてそう答えると、フロイトは得意満面で葉巻をくゆらせた。
「ほう。『精神分析』をご存知だとは……。ロンドンではわが輩の理論はそんなにも浸透しているのかね」
すると脇からスピロが鼻でわらいながら口をはさんだ。
「まさか。未来の話ですわ」
とたんにフロイトは眉間に皴をよせて、たちまち気分を害した顔つきになった。
「ミスター・ワイルド。これはなんの悪ふざけかな。きみがわが輩の元にきて、女性の生き方やあるべき姿を、精神医学から教えて欲しいとこうてきたから、わざわざ来てやったというのに、まったく悪趣味きわまりない」
「ドクトル・フロイト。僕は女性の『ヒステリー』について知りたかったのです。だがあなたは『ヒステリー』は女性特有のものではなく男性にもあるというではないですか」
「まったくもってその通りだから仕方があるまい」
「おとばですが、その主張のせいで、ドイツ医学界からうさん臭がられてるのでしょう」
「あれは古き因習にとらわれている医学界がまちがえているのだ」
フロイトが忌々しげにそう反論すると、スピロがすぐにそれに賛同した。
「えぇ、フロイト様。あなたが正しいのです。『ヒステリー』は女性特有の問題ではありません」
「ふん、あなたのような女性に肯定されたとしても……」
「女性なんかにはわからない。女性は男性のように頭がよくないから?」
「まぁ、そんなところだね」
「では、女性は男性に頭脳が劣る女性特有の『問題』があるのでしょうね……」
「『ヒステリー』とおなじように」




