第86話 パーティー会場に着きそうですわ
「そろそろパーティー会場に着きそうですわ」
エヴァがそう呟いたのを聞いて、ゾーイは馬車の窓から外に目をやった。すでに日が落ちてあたりは真っ暗だったが、どこからかバイオリンを奏でる音が風にのって聞こえてくるのがわかった。
あたりは鬱蒼とした森ばかりで、どこか郷愁を感じる田舎の風景が続いていた。ロンドンとはうってかわって、空気は澄みわたり、あたりから聞こえるのは、喧騒や機械の音ではなく、虫や鳥などの鳴き声だ。
ただ今はそんなものに耳をすませる余裕はない。田舎の舗装されていない道を走る馬車のガタゴトとうるさい車輪の音に、馬たちの足音ばかりが室内に響いている。
ゾーイはいままで上流世界のパーティーなどに、足の爪先さえもさし入れたこともないので、不安でなかった。
「お、見えてきた」
マリアが馬車の窓から頭を突き出して、はしゃぎながらそう言うと、エヴァが「マリア様、お下品ですわよ」と慎ましやかにたしなめた。ゾーイははしゃぐのも落ち着くのもできないほど、気もそぞろになったいたので、隣に座っているネルのほうに救いを求めた。
念願の夢が叶うことになって、さぞや浮き足だっているだろうと思ったが、ネルは『エチケット・ブック』に顔を突っ込まんばかりにして、ページをめくっている。緊張もしているのだろう、いくぶんその顔は強ばってみえた。
「ネルさん、あんた大丈夫かい?」
「あ、ええ、でも、まだ覚えてないことがおおくて……」
ことばが喉に貼りついているような口調で、たどたどしく答えた。
「おい、ネル、どうした。おまえが言い出しっぺだろうがぁ」
「ええ、そうですわ。で、でも、もうすぐ本番だと思うと、き、きゅうに……お、おじけづいてきちゃってぇ」
「まぁ、エチケットブックをよく読んで、すぐにボロがでないようにしてくださいませ」
エヴァがあきれ果てたような口調で、ネルに注意した。
「そうだ、そうだ。どうせ下層階級なんだからな。それに今回のパーティーはフォーマルじぇねぇってことだ。玉の輿に乗れそうな貴族やら大地主なんかはいねぇぜ」
「マリアさん、そうぶっちゃけるのもどうかと」
マリアとエヴァが好き勝手言っているせいで、ネルはさらに顔が強ばってきたように思えた。ゾーイはネルの手の上に、自分の手を重ねた。
「ネルさん、社交界でパーティーを楽しもうじゃないか。どうせ一回きりだって思えば、すこしばかりひっかき回すくらいがちょうどいいさ」
「ああ、ゾーイさん。ありがとう。気がちょっと楽になりましたわぁ」
ゾーイが手を重ねるだけで、ずいぶん安心したようだった。
「それにネルさん。あたいらもエヴァさん以外は、あんたとおなじでこんなとこ来るのは初めてだ。けっして上流階級の生れじゃないからね。だから、たぶんあたいらの誰かが粗相するにちがいないさ」
そう言ってマリアのほうへ目線を誘導すると、なんとなく安心したのかネルは口元をすこしほころばせた。
ゾーイはその顔をみてホッとしたが、ふと、姉スピロがここにいたら、なんと言ってネルを説得しただろうかという気持ちにとらわれた。おもわず自分たちの馬車を先導する、前の馬車のほうに目をはせる。




