第85話 社交界へようこそ——
この頃、商業の中心でもあったイギリスでは、次々と大金を手にするものが増えていた。
小店主は大商人に、機械工が工場主にとなり、富を得ると、貴族や地主たちからなる上流階級への憧れが強くなっていく。贅をきわめたあとは、虚栄心を満たしたいというのが人間の性だからであろう。
だが、そのコミュニティにはいるのは大変だっった。権力や権威をなるべく少数で掌握し、新参者は排除したいという力学が働くからだ。
その下品な人々から社交界を隔てるために、上流階級の人々はひとつの壁をつくった。
エチケット——。
それは、法でしばれない社交界へ、そのような新参者の流入を防ぐ堰だった。
だが野心を抱いて社交界へ乗り込もうとする人々を、後押しするように数々の『エチケット・ブック』が出版されると、数々のひとびとが社交界デビューの機会を得るようになった。
貴族の一員、王室関係者、という触れ込みの匿名で書かれた、エチケット・ブックは具体的な人物像を想定して書かれており、読み手は自分の境遇を投影しやすかった。
貴族の親戚がいる牧師の娘。上流階級の叔母がいる田舎の娘。夫が一山当てて突然大金持ちになった新興成金の妻、お金持ちの心をいとめて玉の輿にのった労働者階級の娘等々。
もっとも人気のあったエチケット・ブック『上流社交界のマナーとルール』は実に35版も重ねたという。
ということで、スピロはそれらを数冊買い込むと、ネルにそれを熟読するよう命じた。
本来の社交界デビューには、実力者の推薦やそのひとの洗練度を見極めるための、通過儀礼がいくつもあった。
地元の牧師の訪問からはじまって地主一家の訪問等を経ることで、上流階級の幾人もの目で品定めされる。その際には『訪問カード』と呼ばれるカードが使われたが、そのカード自体で、すでに新参者の力量をおしはかられた。
紙の風合い、字体、カードが置かれていった時間帯、デザインなどで、社交の掟を学んだものには、誤りのない情報を読みとった。
社交界デビューというのは、お金があるだけでは果たせない、生半なものではなかったらしい。
とはいえ、なかには『新興成金』が、だれでも連れてきていい豪華な晩餐会を大々的に開いて、関係を築こうとしたり、困窮した貴族の女性が高額の報酬と引き換えに、社交界デビューさせるビジネスをしていたり、抜け穴はあったようではある。
今回のパーティーはそのようなフォーマルなものではなく、『ザ・ウーマンズ・ワールド誌』の編集長が、懇意にしているクイーンズベリー侯爵ジョン・ダグラス卿の邸宅を借りた形のものと聞いていた。
英国上流会の人々はいくつかの屋敷やタウン・ハウスを所有しており、季節ごとに引っ越しをした。だが、「王立芸術院』年次展覧会の内覧の5月になると、議会の開催にあわせて、みなロンドンに集まった。
5〜7月の初夏が『ロンドン社交期』となる。
7月の終わりともなると、すでにおおくの貴族や地主は地元に戻っていたため、今回のように邸宅をスムーズに借り受けできたらしかった。




