第74話 19世紀末の給与事情
「ターナー夫人。お金の問題ではない、とおっしゃっていましたね」
「えぇ。そうですわ」
「では、これでどうでしょう」
エヴァはターナー夫人の目の前で、手のひらをひろげてみせた。そこにはこぼれ落ちんばかりの1ポンド硬貨が乗っている。エヴァはそれをそのままターナー夫人のほうへ突き出して言った。
「ご提示額の倍、週8ポンドをお支払いいたします。前金で二ヶ月分60ポンド(145万)。それでどうでしょうか?」
さすがにそれだけの大金を目の前にして、ターナー夫人はごくりと喉を鳴らした。それをみてスピロがボソリと呟いた。
「普通、年に60ポンドもあれば、独身の女性ならずいぶんゆとりのある生活ができますけどね【花婿の正体】」
この当時の年収を考えると、これは非常識な破格値と言える。
ワトソンの傷痍年金は年間で208ポンド(500万円)で、ほぼ下宿代と同等だったが、これでもかなり良い部類だった。新聞記者の年収は104ポンド(250万円)【唇のねじれた男】、住み込みの家庭教師の年収は48ポンド(115万円)【ぶな屋敷】、程度だったらしい。
500万円もの年収を使い果たしていた、ワトソンは結構な浪費家と言える。が、結局、ホテル暮らしが続かず、下宿生活への切替えを決意するが、このホームズと共同生活をするベーカー街221Bの下宿代を、『格好な値段』と評しているので、賄いや光熱費込みなら、まずまずの掘りだしものだったのだろう。
グレート・ウォーム街(架空の通り)の下宿にひきこもって、奇妙な行動をとる下宿人の捜査依頼を受ける話では、小さい居間と寝室の二部屋で年に130ポンド(312万円)だったので【赤い輪】、おおきな居間があるホームズたちの部屋は、納得のいくものだったのかもしれない。
ちなみに、当時のスコットランド・ヤードの警察官の給与は、週23シリング(2万7000円、月収11万円程度)}しかなく、レストレード警部でさえその四倍程度(44万円)だった。そのため現役の警官であっても、お金をもらって私立探偵の副業をやることは、この時代にはそれほどめずらしいことではなかったらしい。
エヴァはてのひらの上の大金から目が離せないでいる、ターナー夫人にたたみかけた。
「たしかに『イースト・エンド』の安宿でも、これでもかと客を詰め込んで泊めれば一晩で20シリング、そう1ポンド稼げます。でもたった5人を泊めていただくだけで、それよりおおく手にすることができるのですよ。良い取引ではないでしょうか?」
「やっぱりお貸しできませんわ」
ターナー夫人のこたえは、予想外のものだった。




