第71話 セイたちベーカー街にいく
ベーカー街——。
その道すがらに掲げられていた案内看板を見つけたスピロは胸がすく思いでいた。
自分は『シャーロキアン』を自認できるほど、シャーロック・ホームズに傾倒しているわけではなかったが、ミステリ好きであれば、心踊らないわけがない。
ここから名探偵の歴史がはじまったのだから。
今、自分が19世紀末のロンドン、そしてシャーロック・ホームズの舞台となったベーカー街にいると思うと、この濁りきった大気でさえ、心の奥底まで陶酔に誘う甘き香りをまとって感じられる。
スピロは深呼吸をした。
が、とたんにむせかえって大きな咳とともに体を前に折って、よろけそうになった。
「おい、スピロ!。こんなとこで、深呼吸するたぁ、ロンドンのことをなにも学習してねぇな」
マリアがまるめた背中に辛らつなことばを投げかけてきた。が、セイはスピロのからだを抱きとめるように、すぐに手を前にさしだしてきた。
「大丈夫かい。スピロ」
自分のふがいなさと同時に、やさしくされたことが恥ずかしくて、スピロはすこし照れながら「つい浮かれてしまいました」とだけ答えた。
「浮かれる?。きみがかい?」
「はい。ミステリファンにとっての聖地ですので」
「らしくないね」
セイは笑みをうかべながら、スピロに手をさしだした。
「はい。セイ様……。らしくありません」
スピロは嬉しさを顔いっぱいに広げて、セイの手をとった。
そのとき、ふいに頭のなかにゾーイが呼びかけてくる声が響いた。
『お姉様。借間の貼り紙をみつけたよ』
スピロは正直、もうすこしのあいだセイとの会話を楽しみたかったのにと、うしろ髪をひかれる思いでいたが、すぐにあたりを見回した。
数十メートルむこうに、先行して物件探しにでていたゾーイとエヴァが手をふる姿がみえた。
ゾーイの探してきた物件は、通りの中腹あたりにある、地下一階地上三階建ての建物だった。
これは当時のロンドンの一般家庭用の建物の標準的なつくりで、地上三階、もしくは四階に、地下または半地下がセットになっていた。地下室には玄関脇の戸外の階段を使うが、ご用聞きやセールスマンとはここで立ち話をすることになるので、通常は台所や洗濯場、貯蔵庫として利用されることが多い。
地上一階は玄関から通じる応接間と居間、そして食堂からなり、二階は寝室と客用の寝室、もうひとつの居間、浴室。三階は子供たちの寝室とお手伝いさんなど使用人の寝室などに使われた。
『シャーロック・ホームズ』では、地下一階と一階をハドソン夫人が、二階にホームズの寝室とワトソンの寝室、そしてその中間に共同で使う居間があっあり、三階にはお手伝いさんと玄関番の少年が住んでいる設定になっていた。
この建物は実際には存在しない番地『ベーカー街221番地』となっており、その二階であるので、ホームズの住所は221『B』(フランス語の『BIS』ビス=二度の意味)と表記されていた。
ホームズの下宿の間取り




