第62話 フレッド・アバーライン
マリアとエヴァの淡い期待と憧憬はあっけなく打ち砕かれることになった。
呼び出しに応じて現われた、アバーライン警部補は、もみあげから繋がった髭が、そのまま鼻のしたの口髭とつながった、むさくるしい容貌の男だった。顎の部分はしっかり剃られているので、髭がすこしいびつな『W』の文字のようなフォルムになっている。そしてその顔はその髭の存在感に負けないほど、武骨でがっしりとした中年の顔だちだった。
1888年1月頃のアバーラインの肖像画
ふたりのあからさまに幻滅している姿をみて、ゾーイはドキリとした。ひとが失望している姿は見慣れていたが、マリアとエヴァがそんな表情をみせられ、臓腑を抉られたような気分になった。
兄スピロを見るときの、ひとびとの視線——。
そのほとんどがなにかしら落胆の色を帯びていた。そしてたいがいは、おおきな嘆息だったり、ふんと鼻を鳴らす音だったり、興味をうしなったことをしめす冷たい視線などの行為がともなった。
そんなときゾーイは、自分が蔑まれていたり、憐れまれているような気分になった。
スピロも自分とおなじ気持ちになってはいないだろうか……。
「も・う・な・れ・た・わ」
ゆがんだ口の端から空気が漏れて、いささか聞き取りにくかったが、スピロは自分の口ではっきりとそう言ったことがある。
ただの強がりだ——。ゾーイはわかっていた。
それは生れてからずっとつらさを重ねてきた末にたどりついた、あきらめの境地ゆえのことばなのだ。
あきらめない、という選択肢がある決断ではない。
それを受け入れるしかない、という一方的で、理不尽な決断だ。だが、それをみずから口にすることで、スピロは半歩前に……、いやスピロ流に言えば、車イスの車輪半回転分だけでも前に進める。
ゾーイはすっかりしょげ返っているふたりから、おそるおそるスピロのほうへ視線を移した。
スピロは笑っていた。
そしてそれはとても楽しげにみえた。屈託のない心の底からの笑顔。
気づいたときには、つられるようにゾーイも笑っていた。
「まぁ、まぁ、マリア様、エヴァ様。創作物というものは美化されてつくられるのが常です」
スピロがふたりをからかうような口調で言うと、マリアは口をとがらせて文句を言った。
「だけどな——。この髭面のおっさんのどこかがアバーラインだ。『黒執事』ではもっとすっきりとした顔をしていたぞ」
「そうですわ。こんないかつい顔のお方が、アバーラインさんだなんてほんとうにがっかりですわ。ジョニー・デップ様はゾクゾクする色気がありましたわ」




