第35話 これを水だって嘘を言ってるからな
「まぁ、死なない程度に痛めつけただけだよ」
スピロはやれやれという顔をして、ゾーイにやさしく言った。
「まぁ、相手が死んでいないのなら、それでいいです」
「おい、ピーター。おかしなことを聞くが……、これはなんだ?」
バケツのなかを覗き込んだマリアが、不快そうに歪ませながら尋ねた。
「マリアさん、なにを言ってるんです。水ですよ。飲み水やらいろんなことに使う」
ピーターの回答を聞きながら、マリアは口元をおさえてうつむいた。しばらくその状態で動かなかった。まるでいまにも気絶しそうにすら見える。
「どうしたんだい、マリア。気分がわるそうだけど?」
マリアがゆっくりと顔をあげた。
「あぁ、すこぶるわるいな。ピーターがこれを水だって嘘を言ってるからな」
「マリア、ひどいな。嘘なんてこれっぽっちも……」
セイは前に進み出て、バケツのなかを覗き込んだ。
そこには汚泥がたまっていた。すこし置いていたせいで、汚泥が沈殿していてうわずみ液があったが、それは茶色く汚れていて、汚泥と液体が分離しているのがなんとか見てとれる程度の透明度しかない。なにより鼻がひん曲がるほどの臭いがしていて、見た目そのままのただの『汚物と汚水』だった。
「ピーター、これはなんだい?」
セイは答えはわかっているはずなのに、無意識にピーターに質問をしていた。
「セイ。あなたもマリアとおなじことを言うんですか?」
ピーターはあきれかえって言った。
「あんたたちのいた未来ではどうなのかは知らないけど、今ぼくらが手にできる水はこれしかない。ここにあるこの汚れた水しかね」
「汚れているだけではありませんよ」
スピロがバケツのなかにちらりと視線をくれてから言った。
「これは大変危険な水ですよ。工場排水、し尿や糞尿、生活排水などは、下水を通ってテムズ川に流されます。この水はその汚水を汲みあげただけのものです。これを口にするということは……」
「わかってるさ、スピロさん」
ピーターはそう力強く言うと、そのまま声のトーンをひそめてから続けた。
「だから、この街では5歳までに半分は生きられないんですから……」
「そうですね。ですからおとなたちはみんな水代わりにビールを飲んでいると聞きます。たしかこの時期は安く酔っぱらえるからと、ジンのほうが人気とも……」
「あぁ、そうだよ。だけどぼくら子供はそんなもの口にできやしない。これを、この水を口にして生きていくしかないんだ」
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ウィリアム・ホガース 『ビール街とジン横丁』
貧民街では誰も彼もが安酒ジンを飲み、地獄さながらの様相が繰り広げられている。
中央の階段に腰かけた、見るからに荒んだ酔いどれのヒロインは子持ちの娼婦だ。素足に梅毒の腫れものを浮かべ、嗅ぎ煙草をつまもうとして、授乳中の我が子が転落しかけても気づかない。




