第11話 ナイト・キャップ始動
かがりにとって、その水槽は聖が潜るたびに、自分が置き去りになる場所だった。
すべて透明な素材で造られた十メートル四方ほどの広さのプール。2メートルほどの間隔で仕切られた水槽の真ん中のブースが、聖がダイブにつかう定位置だった。
手を伸ばせばすぐに触れる場所にいるのに、なにもできず見守るしかない。そんな不安な気持ちで待ち続けるだけの場所。
かがりにとって、この水槽こそが『こちらの世界』と『あちらの世界』を隔てる『三途の川』のような存在でもあった。
いくどものダイブのなかで、聖が晴れやかな気持ちで起きてきた時も、水槽にすわったまま涙にくれるほど落ち込んだ時も、死にかけて緊急搬送された時も、かがりはいつも、この水槽の前に座って、精神世界で戦う聖を見守ってきた。
ただ見つめ続けることしかできないことが、悔しくて仕方がなかった。
入り口のほうが突然騒がしくなってきた。かがりが目をやると、「なんでスクール水着みたいなのがユニフォームなんだ」と不満を口にしながらマリアが入ってきた。
「いや、だって液体のなかにからだを沈めるからね」
「だったら、エヴァみたいな可愛いのにしてくれ!」
かがりは言い争いをしながら部屋にはいってきた三人のほうに目をむけた。
聖が競泳水着のようなシェイプのパンツ、マリアがネイビーカラーのワンピースの水着、を着ていた。幼児体形のマリアはその水着が、やたらしっくりと感じられる。
エヴァが着ていたのはビキニだった。
いや小さすぎる。たぶんビキニと呼ばれているものだ、とかがりは心のなかで訂正した。ビキニと呼ぶには布の面積があまりにもすくない。おかげでバストを完全に隠しきれず下乳が見切れている。さらに首のうしろで結んだ紐は頼りなげで、カップをひきあげる張力を今にも放棄しそうだ。
おおきい——。
かがりはすぐに降参した。マリアほどではないにしても、メリハリに欠ける自分のからだはコンプレックスだったが、これだけの横綱級のボリュームを目の当たりにすれば、白旗をあげるのに躊躇はなかった。ここまで圧倒的だと羨む気すら沸き起こらない。
かがりの心にふっと不安が持ち上がってきた。思わずエヴァの肢体を凝視した。
「おい、かがり。オレは心配ないってことか!」
背後から大声をかけられて、かがりはびくりとからだを震わせた。あわてて振り向くとぺったんこの胸を強調するように胸に手をおいてマリアがこちらをにらんできた。
「あ、いえ、なに?。マリア……」
マリアは親指でエヴァのほうを指し示しながら「あいつが心配なんだろ」と言った。
「な、なにが心配なのよぉ」
「まぁ、聖も男だからな」
「だ、だからなに?」
マリアはにたにたと笑いながら、すれ違いざまにかがりの胸をポーンとはたいた。
「まぁ、『ぺったんこ同盟』同士、共闘してもいいぜ」
「だ、だれが『ぺったんこ同盟』よぉ」
かがりはマリアを怒鳴りつけてやろうとしたが、マリアは高笑いしながら、プールのほうへむかっていった。
「なんです、これ?。なんかねっとりしていますわ」
プールに浸された液体にからだを沈めるなり、エヴァは悲鳴のような声をあげた。スピーカーを通じて輝雄が説明をはじめた。
「それは『念導液』と呼んでいる指向性のある導体だ。プールのなかに張り巡らされた各種のセンサーの『電極』の役割をしている。君たちはからだ中にいろいろ電極をつけられたくないだろう」
そう言われてエヴァが上を見あげた。水槽の上には大仰なアームが十数基もついた大型の機器が設えられており、そこから夥しい本数の配線がプールの中に張り巡らされている。この液体はこれらの機材の電極なのだと理解した。
「モニタ画面を見てもらいたい。これがきみたちがダイブする要引揚者だ」
エヴァが画面を注視すると、ベッドに横たわる白人の少女の顔が映し出された。
「イタリアの十二歳の少女だ」
「オレたちはこの子の前世に潜らされていたっていうわけだな」
その口ぶりから、マリアはローマ法王庁にしてやられたことを、まだ根に持っているようだった。
「頭のところにあるゴーグルと酸素供給マスクをつけて、その『念導液』のなかに横たわってほしい」
輝雄の声が次の行程を促すと、聖よりもはやくマリアがそれに応じた。見たことないデバイスに興味津々なのが、その表情から見て取れた。
エヴァは不安で仕方がなかった。自分たちの財団でも似たような『導入促進装置』を使っていたが、これにはダイバーの感応力との相性があった。これはある意味、感応力のアレルギー反応のようなもので、おおくのダイバーがこれに苦しめられた。さいわい自分はまったくその相性に左右されることはなかったが、この機器との相性が大丈夫だとは言い切れない。
「マリアさん。あなた、パッチテストもおこなってない機器で、よくすぐに潜ろうと思いますわね」
エヴァがはしゃいでいるマリアを揶揄すると、マリアはゴーグルを取り付けた顔で「戻ってきてからゲロ吐く思いするから、潜りたくない、という選択肢はオレにはないからな。むしろ、ゲロ吐くくらいの苦しみていどで、悪魔を倒しにいけるならありがたいくらいだ」
それを聞いてエヴァは自分がわるものになった気分になった。つまりは「金のためなら、嘔吐するくらい我慢しろ」ということだ。
エヴァは天井からぶらさがった機器の上からゴーグルをとりあげると、それを目元にあてがい、酸素マスクを口元に装着した。
ゆっくりと『念導液』のなかに横たわる。耳元から顔にぬるっとした感覚がはいあがってくる。頭全体が液のなかに完全に沈み込んだあとも、その感触は消えていかない。なにかの信号に呼応するたび、なにか小さな虫のようなものがぬめぬめとからだ全体をはい回っているように感じて鳥肌がたちそうになる。
その気持ちのわるさに、エヴァはこのダイブを承諾したことを後悔しそうになったが、ぐっと唇を噛みしめて我慢した。耳元に夢見博士の声が聞こえてきた。
『ナイト・キャップ始動』
目の前に光がちかちかとした点灯しはじめた。やがてひとつひとつの光が、光の飛礫となって奥へと飛んでいく。耳鳴りのような高周波が響きはじめると、なにも考えられないほど耳にひろがり、その音に鼓膜がふさがれる。
一瞬ののち、光と音の洪水に体中を包みこまれた。