第110話 ハギア・ソフィア大聖堂
マリアは聖堂への入り口の前に立つと上をみあげた。『皇帝の門』と呼ばれるおおきな正面入口の上の空間にモザイク画があった。だれかにだれかがひれ伏している姿が描かれていた。
マリアは神経を研ぎ澄ましながら、聖堂のなかにゆっくりと足を踏み入れた。
目の前にビザンチン建築の最高傑作と称された、ハギア・ソフィアの聖堂が姿を現した。スルタン、メフメト二世さえも驚嘆させたその聖堂は、地上55メートル、直 径33メートル、現代の18階建てのビルに匹敵する巨大な中央ドームを、周囲の半円ドームが支える構造になっていた。高い天蓋に覆われた広々とした内部空間は、宮殿のような威厳すら感じさせる。
だが、コンスタンティノープル陥落から数年の間に内部はかなり作り替えられていた。
十字架などキリスト教世界のものはすべて取り除かれ、聖地メッカの方向を指し示すミフラーブと呼ばれる壁龕(壁の窪み状の設備)がすえられていた。
マリアはネイブと呼ばれる教会の中央部分にゆっくりと歩みでていく。
「マリア、それを見て、どう思うかね?」
奥のほうからロルフの声が聞こえた。広いドーム状の構内に反響する。
「どうって?。なんとも」
「イスラム教のスルタンは、ここをモスクにするために、ビザンチン美術の最高傑作を台無しにしようとしているのだよ」
「だから?。歴史は常に勝った者が自分の都合のいいように書き換えるものでしょう」
「きみが今通ってきた聖堂の入り口の門の上を見たかね、キリストと、キリストに礼拝をする皇帝のモザイク画だ。このあとの時代のスルタンたちはこれらの芸術すらも、塗り固めてしまうのだよ」
マリアは必死で耳をすませた。音が反響してロルフがどこにいるのかがわからない。ふっと足元を風が洗っていくのを感じた。マリアはとっさに下に注意を向けかけた。
ロルフはそんなマヌケじゃないっっ。
すぐさま天井に目をむけた。ドーム天井付近の空気によどみのようなものを感じた。ロルフがおしゃべりで時間を稼いでいるあいだに、上空に風の塊を圧縮していたのだと瞬時に悟った。
押し潰すつもりねぇぇ——。
マリアは持っていた剣を投げ出すと、床をちからの限り蹴飛ばして、いまさきほど通ってきた『皇帝の門』のほうへ、弾丸のように飛び出した。と同時に強力な気圧の塊が一気に上からのしかかってきた。マリアのからだはその塊が床を穿つ直前に、入り口からすり抜けていた。