第88話 人の命を救うより大事な任務がある
それを聞いたときのマリアのとまどった表情は、狼狽しているようでもあり、哀しげでもあった。
レオンにはそう見えた。彼はロルフのうしろでヴラドの護衛にあたっていたが、まんじりとして動くことができなかった。ふたりの高度な戦いに、迂闊に手を出せない。
だが、レオンはマリアの当惑した気持ちはよくわかった。自分もはじめてロルフに話を聞いたときもおなじような反応をした。おそらく同席したノアもおなじだったはずだ。
『人の命を救うより大事な任務がある』
そのとき、ロルフはなんのためらいもなくそう言い切った。
『そう、いつだってこの世には、人の命より価値のあるものがある。いくらだってね。わかいときには受け入れがたかったが、次第にわかってきた。たぶん、自分がアッヘンヴァル学長くらい歳を重ねれれば、それは完全に腑に落ちるのだろうと思う』
「【よもや、よもやだ!】」
マリアはわざとらしく、日本語で驚いてみせた。
「マリアちゃん、また日本語かい?」
「まさか、そんな狂った命令だとは思わなかったわ。イスラムの戦いに勝てって、今ここで勝てってこと?」
「ああ、そうだ」
「勝ってなんの意味があるの?」
マリアは当然の疑問をさらりと口にした。
「ここってあの少年の記憶のなかの世界よ。ここでどんなに素晴らしい勝利をあげても、現実ではなにひとつ変わりはしないんじゃなくって?」
そう、マリア。その通りだ——。
ぼくらもロルフにそう問うた。
『ギュンター教授。失礼ながら、ひとの前世の記憶という仮想空間での勝利は、現実世界のひとを救って、はじめて価値をもつものですよ。そうでなければ、どんな歴史をひっくり返したとしても、誰にもわかってもらえない。ただの自己満足でしかないじゃないですか」
『ああ。ここで勝ったとしても、現実世界の歴史が変わるわけじゃない。そんなことは重々承知だ』
ロルフの迷いを感じさせない返事に、ノアまでがすこし苛立っていた。
『だったらなぜ。要引揚者の命を犠牲にしてまで、そんな無意味なことを優先させるんですかぁぁ』
『無意味ではないのだ、ノア。バチカンは過去の歴史のなかで犯したキリスト教会の誤りを正すことが、現実世界の、いや、これから築く歴史の糧にできると信じている』
『仮想空間の勝利がどんな糧になるんですかぁ』
ノアの口調は疑問形をとっていたが、困惑とわずかばかりの怒りのようなものを含んで聞こえた。
いや、それはちがう。これはレオンそのものの感情だ。