第75話 そうはいかないよ。マリア
「そうはさせない」
ノアが声を押し殺して言った。
マリアは『鋸壁』の凹部に足をかけて、いままさに下に飛び降りようとしたところで動きをとめた。
「なにもできないでしょう」
「いいや、なにもできないのは君のほうさ、マリア。ぼくがなにもせずに君の命令に従ったと思うのかーーなぁ」
マリアはノアの戯言を無視して、ジャンプをしようとした。
が、体が動かなかった。みえないなにかに縛りつけられたように、からだが硬直し、足はまるで地面に打ちつけられたようにピクリとしなかった。
「マリア、君にぼくの意識を共有させたときに、ぼくも君の意識を共有させてもらったーーよぉ。意識下の深層の部分をねぇーー。ま、グランド・シューレに入ったばかりじゃ、言ってる意味わからないかーーなぁ」
「はやい話があたしの自由を奪ったっていうわけね」
「それだけじゃないーーよぉ。ぼくはきみを操ることもできーーるのさぁ」
そう言ってノアはニタリと笑った
「ぼくの本当の能力は『操演』。千里眼や人の心を読み取るのも、ひとの意識に潜りこむのも、そのための手段でしかなーーいのさぁ」
マリアは顔を伏せて、奥歯をかみしめた。
「ははぁ、マリア、悔しいのかぁーーい」
それまでのただの鬱陶しいしゃべり方が、やたら粘着質で威圧的なものに変化してきている。その言い方は気色わるくて、マリアはさらに苛立ちをつのらせた。
「いいえ。悔しくなんかないわよ。ただね……」
「腹を立ててるわよ、ノア。あなたたちを仲間だと信用した自分にね!」
「それは残念だったねぇーー」
「ええ。人類の歴史に何度も潜って学んでたはずなのに、人を信用するなんていう幻想を抱いてしまった自分に腹がたつ。人は利害が一致するから群れて、その均衡が保たれているうちだけは仲間、と呼ぶって、嫌っていうほど知ってたのに」
「そんなことはなーーいさ」
「きれいごとはもうたくさんよ」
マリアは剣を構えたラドゥのうしろに隠れたまま、二人のやりとりを聞いていたメフメト二世にむかって言った。
「スルタン。お願いをきいてくださる?」
「お願い?」
「えぇ。この男を、ノア・ツイマーマンを殺していただけるかしら」