第33話 コンスタンティノープル陥落6
運命の日——
1453年5月29日 包囲から8週目——。
メフメトも自分たちにとっての吉兆、そしてキリスト教世界における凶兆をみて、雌雄を決するときだと覚悟した。
メフメト二世は、兵士を前に自分たちの正当性と、この勝利がいかに尊いかを演説してみなを鼓舞した。
『神は偉大なり』
兵士たちのボルテージは最高にまで高まった。
第一陣は『ボシボズク』、イカレ集団と呼ばれる命知らずの粗暴な集団が突撃した。彼らは完全な捨て駒であったが、二時間ものあいだジュスティニアーニたちを苦しめた。
第二陣は正規軍が投入された。ここにはジュスティニアーニたちとおなじ外国人の傭兵が多数いた。宗教の対立など関係なく、お金で動く連中がジュスティニアーニたちに襲いかかった。ジュスティニアーニたちは壁の上に備え付けた小型の大砲を、『散弾』に改造したもので応戦した。
開戦から四時間ほど経った頃になると、ビザンチン帝国側が優位になりはじめ、やがてトルコ軍を圧倒しはじめた。
メフメトは第三陣として、精鋭部隊イェニチェリに最後の望みをかける。これに敗退することがあれば、それで終わりだった。イェニチェリたちは『聖ロマヌス門』に殺到し、ここを突破しようと試みるが、ジュスティニアーニたちの防御はそれを許さない。
ところが思わぬところからほころびがでる。
それはテオドシウスの城壁の北の外れにある『ケルカポルタ門』で起きた。
味方が敵を倒してから城内に戻ったとき、あろうことか鍵をかけ忘れるというミスが発生した。そこからイェニチェリが一斉に城内に流れ込んできて、一気に形勢が逆転する。そしてその混乱のなかでジュスティニアーニが、クロスボーの矢を受けて首に致命傷を負った。
そこでビザンチン帝国の命運は尽きた——。
指揮官の負傷と戦線離脱が知らされると、兵士たちの戦意がたちまち喪失していった。
終わりのときを悟ったコンスタンティノス11世は、皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると、鎧に身を包んで戦う準備をはじめた。
側近のゲオリギウスは秘密の通路からの脱出を説得するが、『わたしはわたしの民を見捨てない』と言って拒絶した。
そして人々を前に大剣を抜きはらって言った。
「神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。都の陥落とともに、われ死なん。逃れんとするものを助け給え。死なんとするものはわれとともに戦い続けよ!」
彼は堂々とした騎士の姿で、市中になだれ込んできたオスマン軍の兵の中に、親衛隊とともに飛び込んでいった。
『降伏せず!』
ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の最後がどうなったかはわからない。身元がわかるものは、ただ片方の靴下のみであったと言われている。
こうしてコンスタンティノープルは陥落し、ローマ帝国は1100年に及ぶ歴史を閉じた——。
そして、この日こそが『中世』の終焉、『近世』のはじまりの分岐点であったと言われている。
1453年5月29日——。
エディルネ門からメフメト二世入城。
祖父や父も果たせなかった——、いや、あのモンゴル帝国も、ティムールも、サーサーン朝も、ウマイヤ朝も果たせなかったコンスタンティノープル奪取という悲願を、アレキサンダー大王に憧れ、カエサルを夢見たイスラムの青年がついに達成した瞬間だった。
メフメト二世、このとき、若干21歳——。
彼は自分を『カエサル・イ・ルム』、あたらしきシーザーと名乗った。
欧州の三分の一、北アフリカの大半、ペルシア湾をふくむ中東全土、東南アジアの一部までを支配し三百年も続く帝国を誕生させ、のちに『征服王』と呼ばれる男の、これが華々しき第一歩だった。
そのコンスタンティノープル、いまやオスマン=トルコ帝国の首都『イスタンブール』を奪還する。しかもあのメフメト二世を敵にまわして——。
農民兵を加えても、兵力三万に満たない小国『ワラキア』の王が望んでいい願いなどでは到底なかった。