第28話 コンスタンティノープル陥落1
ヨーロッパとアジアの境目——。
もしそれをひとつの都市だけで示すとしたら、トルコの首都『イスタンブール』だと言われている。だが、この場所は15世紀までは『ビザンチン帝国』の首都『コンスタンティノープル』と呼ばれていた。
ビザンチン帝国は395年に東西に分裂した『ローマ帝国』の東側の領地で、『東ローマ帝国』とも呼ばれた。『西ローマ帝国』は476年、100年ももたずして、事実上の滅亡を迎えてしまうが、東ローマ帝国は1100年ものあいだ栄え続けた。
11世紀のあいだ、さまざまな大国から実に23回も攻撃を受けたが、ビザンチン帝国はそれらをはねつけ続けた。
それを可能にしたのは、フン族の王アッティラに対抗するために、テオドシウス二世が築いた、難攻不落の大城壁『テオドシウスの城壁』だった。
マルマラ海から金角湾にいたる6・5キロメートルの長さに及ぶ城壁は、幅18メートル、深さ6メートルの濠で囲まれ、その奥には高さ2メートルの胸壁、そしてさらに奥には高さ8メートル、厚さ2メートルもの外城壁、そして厚さ3〜4メートル、高さ13メートルもあり、さらに96にも及ぶ塔で強化された内城壁、つまり大城壁があった
これら三重の壁の奥行きは60メートル、堀からの高さは30メートルにもなり、どれほどの強国もこの壁に進攻を阻まれた。
だが、1453年にこのテオドシウスの城壁を打ち破り、コンスタンティノープルは陥落する。それを成し遂げたのは、オスマン=トルコ帝国のスルタン(君主)メフメト二世。
だがメフメト二世がコンスタンティノープルを陥落させられたのは、彼の若さゆえの無謀さと執念、そしておそるべき強運がもたらしたものでしかない。ほんのちょっとの運のかけちがいで、オスマン=トルコはここで滅亡していた可能性すらあった。
この戦いは世界初の大規模砲撃戦争でもあった。おなじ年、イギリスとフランスとのあいだの百年戦争が終結し、日本では室町幕府の末期、応仁の乱前夜という時代に、現代戦さながらの砲撃戦が演じられた。
その主役はハンガリーの職人ウルバンによって考案された『ウルバン砲』。
長さ5メートル長、16・8トンもある大砲で、64センチの口径から300キログラムの砲弾を1・6キロメートル先にまで着弾させることができた(戦艦ヤマトの口径が44センチだからいかにおおきいかわかる)。
そのなかでも超巨大な大砲『バシリカ』は、砲術士のあいだでは『クマ』の愛称で呼ばれ、長さ8メートル強、銅筒は20センチの分厚さもあり、500キログラムの砲弾を飛ばした。その移動のためには数百頭の牛と数百人の人足が必要なほどであったが、底知れぬ破壊力があった。
メフメト二世は70門の大きな砲座と五百の小さな砲座を配置して、ビザンチン帝国が誇るテオドシウスの城壁に挑んだ。
メフメト二世の父、ムラト二世、『雷帝』と呼ばれた曽祖父バヤズィト一世も、このコンスタンティノープル制圧に挑んだが果たせなかったが、若きスルタンはこの首都を手に入れることで、内外に自分の力を示せると考えていた。