第228話 悪法も法なり
「まったく、それが『世界四大聖人』のすることですか……」
「いま、なんと?」
ソクラテスはすっとんきょうな声をあげて驚いた。
「『世界四大聖人』と言っているのですよ。あなたは、あなたのあとに誕生する三人の偉人、イエス・キリスト、釈迦、孔子と合わせて、人類の歴史上もっともすぐれた人物であると評価されています」
「人類の歴史上もっともすぐれた……、世界四大聖人……」
ソクラテスはなんどかそのことばを口のなかで転がすと、これ以上ないほどにんまりとして言った。
「いい響きではないか!。気に入ったぞ」
そこにいるのは賢人というより、ただの好々爺でしかなかった。その底抜けに満面な笑顔に、みんな呆れ返ったような顔をしたが、しだいに笑いが漏れはじめ、やがてその場が笑いに包まれた。
笑いがひとしきり収まると、セイが言った。
「でもなぜ『悪法も法なり』と言って、死刑を受け入れたのかなぁ」
「セイ様、それはなんですか?。そんなことソクラテス様は言っていませんし、どこの国にもそんな話はないですよ。おそらくニッポンだけの作り話でしょう。もしかしたらラテン語のことわざの『"Duralex,sedlex"(法は過酷であるが、それも法である)』が転じたものかもしれません」
「本当に!?」
「えぇ。ソクラテス様はそんな殊勝な方ではありません。だって、あろうことか裁判官に面とむかって、『おまえたちのバカ面を見なくてすむし、ヘシオドスやホメロスなどの過去の賢人と語りあえるからなんど死んでもいい』と言って『死刑』になったほどなのですから」
「ソクラテス、いくらなんでも言い過ぎでは……」
「ヒポクラテス。おそらくそれくらい馬鹿げた裁判だったのじゃろう。まったくわしが言いそうなことじゃ」
「そうですね。それに最後の最後まで自分の意志を貫かれた……」
スピロはソクラテスを真正面から見つめて言った。
「あなたは、親友であったクリトンが脱獄を手引きしたときに、『もし死刑を免れるために不正を働けば、過去の偉人たちに会わせる顔がない。だが信じる原則を貫けばあの世でも堂々としていられる』と諭して、死刑から逃げずに受けいれられました」
一堂がしんみりとした空気に包まれたが、最初に口をひらいたのはマリアだった。
「さすが、四大聖人だ。口はわるいが、いいことも言う。オレは気に入ったよ」
「まぁ、ただの偏屈じじいではないですわね。貧乏だったのはどうかと思いますが……」
エヴァもマリア同様に褒めているのか腐しているのかわからない物言いだった。だが、ゾーイはソクラテスに辛辣なことばを投げかけた。
「だが、ソクラテスさん。奥さんのクサンティッペさんをもっと大事にしてやってくんないかねぇ。あんたは来年にはもう裁判にかけられちまうんだ。みずからの生き様も大切だとは思うけどさ、家族はもっと大事じゃないかい」
やさしい口調だったが、ソクラテスにはとても厳しい現実をつきつけることばだった。辛い選択であろうと思ったが、スピロはそのあとを続けた。
「執行前夜の最後の面会でクサンティッペさんは、泣き崩れるくらい泣いて別れを惜しんだのですよ。なにが悪妻なものですか。親子ほども年が離れた奥様は、あの人なりにあなたを愛してらっしゃたのではないですか?」
「クサンティッペは……、クサンティッペと三人の子供たちはどうなる……のじゃ……」
ソクラテスのことばは消え入りそうだった。