第173話 ゾーイにはなにが起きたかわからなかった
ミノタウロスが持ちあげた右腕を地面にむかってふり降ろそうとした。
そのとき、上のほう聞こえた雄叫びのような声。ミノタウロスの咆哮にしては、やけに甲高い——。ミノタウロスが邪悪そのものの表情を浮かべた。
その瞬間、ミノタウロスの顔が真ん中からぱっくりと割れた。
邪悪な顔はそのままだったが、顔が縦にズルッとずれたかと思うと、血を噴き出しながら両側に裂けていった。その顔の裂け目が、そのまま首、胸、腹と縦一直線に下へと落ちて行く。
ゾーイにはなにが起きたかわからなかったが、ミノタウロスが頭からまっぷたつにされたことだけはわかった。そして最後に地面を抉る、ドンという重々しい音が響いたかと思うと、ミノタウロスのからだは、まるでバナナの皮がめくれたように、両側にべろりと垂れてから地面に崩れ落ちた。
そこにマリアがいた。
自分の背丈ほど、いやそれ以上の長さに感じられる大剣を地面に突き立てていた。
「なんだよ。全然弱えじぇねぇか」
ゾーイはなにも言えなかった。ゾーイは自分が、一瞬でも死を覚悟するような恐怖に飲み込まれていた、ことを知っている。あまりにも非現実的な光景、そして想像を絶する怪物を目の当たりにして、なにもできなかったことも知っている——。
だが、それほどの脅威をマリアは、一瞬で、こともなげに排除した。まるで子供相手にビデオゲームでもしていたかのように……。
ゾーイのからだは完全に停止していた。現実世界に残してきた、自分の本物のからだがどうにかなっているのではないか、と心配になるほど恐怖にとらわれていた。
が、必死であがいて、なんとか口辺を動かした。
「弱い……って言ったのかい?」
マリアは自分の背丈ほどの剣を、背中にしょった鞘に収めながら言った。
「あぁ、歯ごたえある怪物がでてきたと思って、ここまで一気に駆けてきたんだが、とんだハリボテだぜ、こりゃ」
「ハリボテ?」
「あぁ。ついこの間、ローマでミノタウロス数体を相手にしたが、そいつらこいつよりかなり小さかったのに、こんなには弱くなかったぜ。まったく、『ハリボー・グミ』みたいに歯ごたえなんかありゃしねぇ」
マリアは心底残念そうに言っていたが、ゾーイは話を聞いているうちに、ふと近くにタルディスがいないことに気づいた。
「マリアさん。タルディスさんは?」
「おいてきた」
「いや、そいつはまずいじゃないかい。あのひとがやられちまったら……」
「は、ゾーイ。心配すんな。オレの剣が守ってる」
「剣が?」
「ほら」
マリアが親指をつきだして、タルディスがいる方角を指さした。